く》る真朱《まそほ》足《た》らずは水《みづ》たまる池田《いけだ》の朝臣《あそ》が鼻《はな》の上《うへ》を穿《ほ》れ 〔巻十六・三八四一〕 大神朝臣
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 これは大神朝臣《おおみわのあそみ》が池田朝臣に酬《むく》いた歌である。「真朱《まそほ》」は仏像などを彩色するとき用いる赤の顔料で、朱(丹砂、朱砂)のことである。「水たまる」は池の枕詞に使った。応神紀に、「水たまるよさみの池に」の用例がある。また池田の朝臣の鼻は特別に赤かったので、この諧謔の出来たことが分かる。前には餓鬼のことをいったから、此歌でも仏教関係の事物を持って来た。前の歌も旨いが、この歌も諧謔の上乗《じょうじょう》である。

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法師《ほふし》らが鬚《ひげ》の剃杭《そりぐひ》馬《うま》つなぎいたくな引《ひ》きそ法師《ほふし》半《なから》かむ 〔巻十六・三八四六〕 作者不詳
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 僧侶にからかった歌で、鬚がいい加減に延びた、今|謂《い》う無精鬚《ぶしょうひげ》というのを捉《とら》えて、それを「剃杭」といって、その杭《くい》に馬を繋《つな》いでも、ひどく引っぱるなよ、法師が半分になってしまうだろうから、というのである。この歌の結句は、原文、「僧半甘」と書いてあり、旧訓ナカラカモ。拾穂抄・代匠記・考も同訓である。代匠記初稿本に、「なからにならんといふ心なり」、考に「法師引かされ半分にならんと云」と解し、略解でホフシ・ナカラカムと訓《よ》み(古義同訓)、「なからは半分の意にて、なからにならんと戯れ言ふ也」と解した。然るに、古義が報じた一説に「法師は泣かむ」と訓んだのもあり、黒川春村はホフシ・ナカナム、と訓み、敷田年治ホフシハ・ナカムと訓み、井上(通泰)博士はホフシ・ナゲカムと訓んだ。近時新注釈書はホフシハ・ナカムの訓を採用して殆ど定説になろうとしている。
 けれども、「法師は泣かむ」では諧謔歌《かいぎゃくか》としては平凡でつまらぬ。そこで、「法師|半《なから》かむ」と訓み、代匠記初稿本や考の解釈の如く、「半分になってしまうだろう」と解釈する方が一番適切のようにおもえる。そんならどうしてこういう動詞が出来たかというに、「半《なから》」という名詞を「半《なから》かむ」と活用せしめたので、恰《あたか》も「枕《まくら》」という名詞を
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