往《ゆ》く月《つき》待《ま》ちがてり 〔巻十二・三一六九〕 作者不詳
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まだ月も出ず暗いので、能登の海に釣している海人《あま》の漁火《いさりび》の光を頼りにして歩いて行く、月の出を待ちながら、というので、やはり相聞《そうもん》の気持の歌であろう。男が通ってゆく時の或時の逢遭《ほうそう》を詠《よ》んだものと解釈していいだろうが、比較的独詠的な分子がある。「光に」の「に」という助詞は此歌の場合には注意していいもので、「み空ゆく月の光にただ一目あひ見し人し夢にし見ゆる」(巻四・七一〇)、「玉だれの小簾《をす》の隙《すけき》に入りかよひ来《こ》ね」(巻十一・二三六四)、「清き月夜に見れど飽かぬかも」(巻二十・四四五三)、「夜のいとまに摘める芹《せり》これ」(同・四四五五)等の「に」と同系統のもので色調の稍ちがうものである。なお、「夕闇は道たづたづし月待ちて往《ゆ》かせ吾背子その間にも見む」(巻四・七〇九)と此歌と気持が似て居る。いずれにしても燈火を余り使わずに女のもとに通ったころのことが思出されておもしろいものである。
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あしひきの片山雉《かたやまきぎし》立《た》ちゆかむ君《きみ》におくれて顕《うつ》しけめやも 〔巻十二・三二一〇〕 作者不詳
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旅立ってゆく男にむかって女の云った歌の趣である。「片山雉」までは「立つ」につづく序詞である。旅立たれるあなたと離れて私ひとりとり残されて居るなら、もう心もぼんやりしてしまいましょう、というので、「顕《うつ》しけめやも」、現《うつつ》ごころに、正気で、確《しっか》りして居ることが出来ようか、それは出来ずに、心が乱れ、茫然《ぼうぜん》として正気《しょうき》を失うようになるだろうという意味に落着くのである。この雉を持って来た序詞は、鑑賞の邪魔をするようでもあるが、私は、意味よりも音調にいいところがあるので棄《す》て難かったのである。「偽《いつわ》りも似つきてぞする現《うつ》しくもまこと吾妹子われに恋ひめや」(巻四・七七一)、「高山と海こそは、山ながらかくも現《うつ》しく」(巻十三・三三三二)、「大丈夫《ますらを》の現心《うつしごころ》も吾は無し夜昼といはず恋ひしわたれば」(巻十一・二三七六)等が参考となるだろう。なお、「春の日のうらがな
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