底なる玉、求めて得し玉かも、拾《ひり》ひて得し玉かも、惜《あたら》しき君が、老ゆらく惜しも」(三二四七)というのもある。これは女が未だ若く、男の老いゆく状況の歌であるが、男を玉に比したり、日月に比したりして大切にしている女の心持が出ていて珍しいものである。なお、「悔しくも老いにけるかも我背子が求むる乳母《おも》に行かましものを」(巻十二・二九二六)というのもある。これは女の歌だが、諧謔《かいぎゃく》だから、女はいまだ老いてはいないのであろう。略解《りゃくげ》に、「袖のなれにしとは、年経て袖のなれしと、その男の馴来《なれこ》しとを兼《かね》言ひて、君も我も齢《よはひ》のおとろへ行につけて、したしみのことになれるを言へり」とあって、女の作った歌の趣にしているのは契沖以来の説である。

           ○

[#ここから5字下げ]
ひさかたの天《あま》つみ空《そら》に照《て》れる日《ひ》の失《う》せなむ日《ひ》こそ吾《わ》が恋《こひ》止《や》まめ 〔巻十二・三〇〇四〕 作者不詳
[#ここで字下げ終わり]
 この恋はいつまでも変らぬ、空の太陽が無くなってしまうならば知らぬこと、というのであるが、恋に苦しんでいるために、自然自省的なような気持で、こういう云い方をしているのである。後代の読者には、何か思想的に歌ったようにも感ぜられるけれども、いい方《かた》の動機はそういうのではなく、もっと具体的な気持があるのである。この種のものには、「天地《あめつち》に少し至らぬ丈夫《ますらを》と思ひし吾や雄心《をごころ》もなき」(巻十二・二八七五)、「大地《おほつち》も採《と》らば尽きめど世の中に尽きせぬものは恋にしありけり」(巻十一・二四四二)、「六月《みなつき》の地《つち》さへ割《さ》けて照る日にも吾が袖|乾《ひ》めや君に逢はずして」(巻十・一九九五)等は、同じような発想の為方《しかた》の歌として味うことが出来る。心持が稍《やや》間接だが、先ず万葉の歌の一体として珍重《ちんちょう》していいだろう。なお、「外目《よそめ》にも君が光儀《すがた》を見てばこそ吾が恋やまめ命死なずは」(巻十二・二八八三)があり、「わが恋やまめ」という句が入って居る。

           ○

[#ここから5字下げ]
能登《のと》の海《うみ》に釣《つり》する海人《あま》の漁火《いさりび》の光《ひかり》にい
前へ 次へ
全266ページ中207ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング