一九三)に、「ほととぎす鳴く羽触《はぶり》にも散りにけり盛過ぐらし藤浪の花」という歌の結句も、上代の古調歌には無い名詞止めの歌である。
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巻第七
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春日山《かすがやま》おして照《て》らせるこの月《つき》は妹《いも》が庭《には》にも清《さや》けかりけり 〔巻七・一〇七四〕 作者不詳
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作者不詳、雑歌、詠[#レ]月である。一首の意は、春日山一帯を照らして居る今夜の月は、妹《いも》の庭にもまた清《きよ》く照って居る、というのである。作者は現在|通《かよ》って来た妹の家に居る趣で、春日山の方は一般の月明(通《かよ》って来る道すがら見た)を云っているのである。ただ妹の家は春日山の見える処にあったことは想像し得る。伸々《のびのび》とした濁りの無い快い歌で、作者不明の民謡風のものだが、一定の個人を想像しても相当に味われるものである。やはり、「妹が庭にも清けかりけり」という句が具体的で生きているからであろう。
「この月」は、現に照っている今夜の月という意味で、此巻に、「常は嘗《かつ》て念はぬものをこの月[#「この月」に白丸傍点]の過ぎ隠れまく惜しき宵《よひ》かも」(一〇六九)、「この月[#「この月」に白丸傍点]の此処に来《きた》れば今とかも妹が出で立ち待ちつつあらむ」(一〇七八)があり、巻三に、「世の中は空《むな》しきものとあらむとぞこの照る月[#「この照る月」に白丸傍点]は満ち闕《か》けしける」(四四二)がある。「おして照らせる」の表現も万葉調の佳いところで、「我が屋戸《やど》に月おし照れり[#「月おし照れり」に白丸傍点]ほととぎす心あらば今夜《こよひ》来鳴き響《とよ》もせ」(巻八・一四八〇)、「窓越しに月おし照りて[#「月おし照りて」に白丸傍点]あしひきの嵐《あらし》吹く夜は君をしぞ思ふ」(巻十一・二六七九)等の例がある。此歌で、「この月は」と、「妹が庭にも」との関係に疑う人があったため、古義のように、「妹が庭にも清《さや》けかるらし」の意だろうというように解釈する説も出でたが、これは作者の位置を考えなかった錯誤《さくご》である。
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海原《うなばら》の道《みち》遠《とほ》みかも月読《つくよみ》の明《あかり》すくなき夜《よ》はふけにつつ
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