う》六年、海犬養岡麿《あまのいぬかいのおかまろ》が詔に応《こた》えまつった歌である。一首の意は、天皇の御民である私等は、この天地と共に栄ゆる盛大の御世に遭遇《そうぐう》して、何という生《い》き甲斐《がい》のあることであろう、というのである。「験《しるし》」は効験、結果、甲斐等の意味に落着く。「天ざかる鄙《ひな》の奴《やつこ》に天人《あめびと》し斯《か》く恋すらば生ける験《しるし》あり」(巻十八・四〇八二)という家持の用例もある。一首は応詔歌であるから、謹んで歌い、荘厳の気を漲《みなぎ》らしめている。そして斯く思想的大観的に歌うのは、此時代の歌には時々見当るのであって、その恩想を統一して一首の声調を完《まっと》うするだけの力量がまだこの時代の歌人にはあった。それが万葉を離れるともはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみを辛《かろ》うじて作るに止《とどま》る状態となった。此の歌などは、万葉としては後期に属するのだが、聖武《しょうむ》の盛世《せいせい》にあって、歌人等も競《きそ》い勉《つと》めたために、人麿調の復活ともなり、かかる歌も作らるるに至った。

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児等《こら》しあらば二人《ふたり》聞《き》かむを沖《おき》つ渚《す》に鳴《な》くなる鶴《たづ》の暁《あかとき》の声《こゑ》 〔巻六・一〇〇〇〕 守部王
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 聖武天皇天平六年春三月、難波宮《なにわのみや》に行幸あった時、諸人が歌を作った。此一首は守部王《もりべのおおきみ》(舎人親王《とねりのみこ》の御子)の歌である。一首は、若《も》し奈良に残して来た嬬《つま》も一しょなら、二人で聞くものを、沖の渚《なぎさ》に鳴いて居る鶴の暁のこえよ、何とも云えぬ佳《よ》い声よ、という程の歌である。なぜ私は此一首を選んだかというに、特に集中で秀歌というのでなく、結句が「鳴くなる鶴《たづ》の暁《あかとき》のこゑ」の如く名詞止めであるのみならず、後世新古今時代に発達した、名詞止めの歌調が此歌に既にあって、新古今調と違った、重厚なゆらぎを有《も》っているのに目を留めたゆえであった。なお、巻十九(四一四三)に、「もののふの八十《やそ》をとめ等が※[#「てへん+邑」、第3水準1−84−78]《く》みまがふ寺井《てらゐ》のうへの堅香子《かたかご》の花」、巻十九(四
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