む酒《き》ぞ、この豊御酒《とよみき》は」というのであり、「平らけく吾は遊ばむ[#「平らけく吾は遊ばむ」に白丸傍点]、手抱きて我はいまさむ[#「手抱きて我はいまさむ」に白丸傍点]」とは、慈愛|遍照《へんしょう》する現神《あきつかみ》のみ声である。
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士《をのこ》やも空《むな》しかるべき万代《よろづよ》に語《かた》りつぐべき名《な》は立《た》てずして 〔巻六・九七八〕 山上憶良
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山上憶良の痾《やまい》に沈《しず》める時の歌一首で、巻五の、沈痾自哀文と思[#二]子等[#一]歌は、天平五年六月の作であるから、此短歌一首もその時作ったものであろう。また此歌の左注に、憶良が病んだ時、藤原朝臣八束《ふじわらのあそみやつか》(藤原|真楯《またて》)が、河辺朝臣|東人《あずまびと》を使として病を問わしめた、その時の作だとある。
一首の意は、大丈夫たるものは、万代の後まで語り伝えられるような功名もせず、空しく此世を終るべきであろうか、というので、名も遂げずに此儘《このまま》死するのは残念だという意である。憶良は渡海して支那文化に直接接したから、此思想も彼には身に即《つ》いていて切実なものであったに相違ない。そこで此一首の調べも、重厚で、浮々していないし、また憶良の歌にしては連続流動的声調を持っているが、ただ後代の吾等にとっては稍大づかみに響くというだけである。結句原文、「名者不立之而」は旧訓ナハ・タタズシテであったのを、古義でナハ・タテズシテと訓んだ。旧訓の方が古調のようである。
巻十九に、大伴家持が此歌に追和した長歌と短歌が載っている。長歌の方に、「あしひきの八峯《やつを》踏み越え、さしまくる情《こころ》障《さや》らず、後代《のちのよ》の語りつぐべく、名を立つべしも」(四一六四)とあり、短歌の方に、「丈夫《ますらを》は名をし立つべし後の代に聞き継ぐ人も語りつぐがね」(四一六五)とある。家持は憶良の此一首をも尊敬していたことが分かる。
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振仰《ふりさ》けて若月《みかづき》見《み》れば一目《ひとめ》見《み》し人《ひと》の眉引《まよびき》おもほゆるかも 〔巻六・九九四〕 大伴家持
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大伴家持の作った、初月《みかづき》の歌である。大
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