、「吾妹子に猪名野《ゐなぬ》は見せつ名次山《なすぎやま》角《つぬ》の松原いつか示さむ」(巻三・二七九)があり、この歌より明快だが、却って通俗になって軽くひびく。この場合の「見せつ」は、「吾妹子に猪名野をば見せつ」だから、普通のいい方で分かりよいが含蓄が無くなっている。現に中皇命の御歌も、或本には、「わが欲りし子島は見しを」となっている。これならば意味は分かりよいが、歌の味いは減るのである。第一首の、「君が代も我が代も知らむ(知れや)磐代《いはしろ》の岡の草根《くさね》をいざ結びてな」(巻一・一〇)も、生えておる草を結んで寿を祝う歌で、「代」は「いのち」即ち寿命のことである。まことに佳作だから一しょにして味うべきである。以上の三首を憶良の類聚歌林には、「天皇御製歌」とあるから、皇極(斉明)天皇と想像し奉り、その中皇命時代の御作とでも想像し奉るか。

           ○

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香具山《かぐやま》と耳梨山《みみなしやま》と会《あ》ひしとき立《た》ちて見《み》に来《こ》し印南国原《いなみくにはら》 〔巻一・一四〕 天智天皇
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 中大兄《なかちおひね》(天智天皇)の三山歌の反歌である。長歌は、「香具山《かぐやま》は畝傍《うねび》を愛《を》しと、耳成《みみなし》と相争ひき、神代より斯くなるらし、古《いにしへ》も然《しか》なれこそ、現身《うつそみ》も妻を、争ふらしき」というのであるが、反歌の方は、この三山が相争った時、出雲の阿菩大神《あほのおおかみ》がそれを諫止《かんし》しようとして出立し、播磨《はりま》まで来られた頃《ころ》に三山の争闘が止んだと聞いて、大和迄行くことをやめたという播磨|風土記《ふどき》にある伝説を取入れて作っている。風土記には揖保《いぼ》郡の処に記載されてあるが印南の方にも同様の伝説があったものらしい。「会ひし時」は「相戦った時」、「相争った時」という意味である。書紀神功皇后巻に、「いざ会はなわれは」とあるは相闘う意。毛詩に、「肆伐[#二]大商[#一]会朝清明」とあり、「会える朝」は即ち会戦の旦也と注せられた。共に同じ用法である。この歌の「立ちて見に来し」の主格は、それだから阿菩大神になるのだが、それが一首のうえにはあらわれていない。そこで一読しただけでは、印南国原が立って見に来たように受取れるのであるが、結句
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