ってはこういう云い方には深い情味をこもらせ得たものであっただろう。そのほか穿鑿《せんさく》すればいろいろあって、例えばこの歌には加行の音が多い、そしてカの音を繰返した調子であるというような事であるが、それは幾度も吟誦すれば自然に分かることだから今はこまかい詮議立《せんぎだて》は罷《や》めることにする。契沖は、「我が背子」を「御供ノ人ヲサシ給ヘリ」といったが、やはりそうでなく御一人をお指《さ》し申したのであろう。また、この歌に「小松にあやかりて、ともにおひさきも久しからむと、これ又長寿をねがふうへにのみして詞をつけさせ給へるなり」(燈)という如き底意があると説く説もあるが、これも現代人の作歌稽古のための鑑賞ならば、この儘で素直に受納《うけい》れる方がいいようにおもう。
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吾《わ》が欲《ほ》りし野島《ぬじま》は見《み》せつ底《そこ》ふかき阿胡根《あこね》の浦《うら》の珠《たま》ぞ拾《ひり》はぬ 〔巻一・一二〕 中皇命
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前の続きで、中皇命の御歌の第三首である。野島は紀伊の日高郡日高川の下流に名田村大字野島があり、阿胡根の浦はその海岸である。珠《たま》は美しい貝又は小石。中には真珠も含んで居る。「紀のくにの浜に寄るとふ、鰒珠《あはびだま》ひりはむといひて」(巻十三・三三一八)は真珠である。
一首の意は、わたくしの希《ねが》っていた野島の海浜の景色はもう見せていただきました。けれど、底の深い阿胡根浦の珠はいまだ拾いませぬ、というので、うちに此処《ここ》深海の真珠が欲しいものでございますという意も含まっている。
「野島は見せつ」は自分が人に見せたように聞こえるが、此処は見せて頂いたの意で、散文なら、「君が吾に野島をば見せつ」という具合になる。この歌も若い女性の口吻《こうふん》で、純真澄み透るほどな快いひびきを持っている。そして一首は常識的な平板に陥らず、末世人が舌不足と難ずる如き渋みと厚みとがあって、軽薄ならざるところに古調の尊さが存じている。これがあえて此種の韻文のみでなく、普通の談話にもこういう尊い香気があったものであろうか。この歌の稍主観的な語は、「わが欲りし」と、「底ふかき」とであって、知らず識《し》らずあい対しているのだが、それが毫も目立っていない。
高市黒人《たけちのくろひと》の歌に
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