た、笠金村《かさのかなむら》とも同行したのだから、金村の、「万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮どころ」(巻六・九二一)、「皆人の寿《いのち》も吾《われ》もみ吉野の滝の床磐《とこは》の常ならぬかも」(同・九二二)の二首とも比較することが出来る。比較して見ると、赤人の歌の方が具体的で、落着いて写生している。なお、声調のうち、第三句の「久木生ふる」という伸びた句と、結句の「しば鳴く」と端的に止めたのを注意していいだろう。

           ○

[#ここから5字下げ]
島隠《しまがく》り吾《わ》が榜《こ》ぎ来《く》れば羨《とも》しかも大和《やまと》へのぼる真熊野《まくまぬ》の船《ふね》 〔巻六・九四四〕 山部赤人
[#ここで字下げ終わり]
 山部赤人が、辛荷《からに》島を過ぎて詠んだ長歌の反歌である。辛荷島は播磨国室津の沖にある島である。一首の意は、島かげを舟に乗って榜《こ》いで来ると、羨《うらやま》しいことには、大和へのぼる熊野の舟が見える、というので、旅にいて家郷の大和をおもうのは、今から見ればただの常套《じょうとう》手段のように見えるが、当時の人には、そういう常套語が、既に一種の感動を伴って聞こえて来たものと見える。「真熊野の舟」は、熊野舟で、熊野の海で多く乗ったものであろう。攷證に、「紀州熊野は良材多かる所なれば、その材もて作りたるよしの謂《いひ》か。さればそれを本にて、いづくにて作れるをも、それに似たるをば熊野舟といふならん。集中、松浦船《まつらぶね》・伊豆手船《いづてぶね》・足柄小船《あしがらをぶね》などいふあるも、みなこの類とすべし」とあり、「浦回《うらみ》榜ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし」(巻十二・三一七二)の例がある。「羨しかも」は、「羨しきかも」と同じだが当時は終止言からも直ぐ続けた。結句は、「真熊野の船」という名詞止めで、「棚無し小船」などの止めと同じだが、「の」が入っているので、それだけの落着《おちつき》がある。第三句の、「羨しかも」は小休止があるので、前の歌の「潟を無み」などと同様、幾らか此処で弛《たる》むが、これは赤人的手法の一つの傾向かも知れない。一首は、※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅《きりょ》の寂しい情を籠《こ》めつつ、赤人的諧調音で統一せられた佳作である。この時の歌に、「玉藻
前へ 次へ
全266ページ中130ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング