」(巻二・二二〇)「妹が家《へ》に雪かも降ると見るまでに幾許《ここだ》もまがふ梅の花かも」(巻五・八四四)、「誰《た》が苑《その》の梅の花かも久方の清き月夜《つくよ》に幾許《ここだ》散り来る」(巻十・二三二五)等の例がある。この赤人の「幾許も騒ぐ」は、主に群鳥の声であるが、鳥の姿も見えていてかまわぬし、若干の鳥の飛んで見える方が却っていいかも知れない。また、結句の「かも」であるが、名詞から続く「かも」を据えるのはむずかしいのだけれども、この歌では、「ここだも騒ぐ」に続けたから声調が完備した。そういう点でも赤人の大きい歌人であることが分かる。
○
[#ここから5字下げ]
ぬばたまの夜《よ》の深《ふ》けぬれば久木《ひさき》生《お》ふる清《きよ》き河原《かはら》に千鳥《ちどり》しば鳴《な》く 〔巻六・九二五〕 山部赤人
[#ここで字下げ終わり]
赤人作で前歌と同時の作である。「久木」は即ち歴木、楸《しゅう》樹で赤目柏《あかめがしわ》である。夏、黄緑の花が咲く。一首の意は、夜が更けわたると楸樹《ひさぎ》の立ちしげっている、景色よい芳野川の川原に、千鳥が頻《しき》りに鳴いて居る、というのである。
この歌は夜景で、千鳥の鳴声がその中心をなしているが、今度の行幸に際して見聞した、芳野のいろいろの事が念中にあるので、それが一首の要素にもなって居る。「久木生ふる清き河原」の句も、現にその光景を見ているのでなくともよく、写象として浮んだものであろう。或は月明の川原とも解し得る、それは「清き」の字で補充したのであるが、月の事がなければやはりこの「清き」は川原一帯の佳景という意味にとる方がいいようである。併しこの歌は、そういう詮議《せんぎ》を必要としない程統一せられていて、読者は左程《さほど》解釈上思い悩むことが無くて済んでいるのは、視覚も聴覚も融合した、一つの感じで無理なく綜合《そうごう》せられて居るからである。或は、この歌は、深夜の千鳥の声だけでは物足りないのかも知れない。「久木生ふる清き河原」という、視覚上の要素が却って必要なのかも知れない。その辺の解明が能く私に出来ないけれども、全体として、感銘の新鮮な歌で、供奉歌人の歌として、人麿の、「見れど飽かぬ吉野《よしぬ》の河の常滑《とこなめ》の絶ゆることなくまたかへり見む」(巻一・三七)とも比較が出来るし、ま
前へ
次へ
全266ページ中129ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング