り]
 題詞には、大津皇子被[#レ]死之時、磐余池|般《ツツミ》流[#レ]涕《ナミダ》御作歌一首とある。即ち、大津皇子の謀反《むほん》が露《あら》われ、朱鳥《あかみとり》元年十月三日|訳語田舎《おさだのいえ》で死を賜わった。その時詠まれた御歌である。持統紀に、庚午賜[#二]死皇子大津於訳語田舎[#一]、時[#(ニ)]年二十四。妃皇女|山辺《ヤマノベ》被[#レ]髪徒跣奔赴殉焉。見者皆歔欷とある。磐余の池は今は無いが、磯城郡安倍村大字池内のあたりだろうと云われている。「百伝ふ」は枕詞で、百《もも》へ至るという意で五十《い》に懸け磐余《いわれ》に懸けた。
 一首の意は、磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのであるか、というので、「雲隠る」は、「雲がくります」(巻三・四四一)、「雲隠りにき」(巻三・四六一)などの如く、死んで行くことである。また皇子はこのとき、「金烏臨[#二]西舎[#一]、鼓声催[#二]短命[#一]、泉路無[#二]賓主[#一]、此夕離[#レ]家向」という五言臨終一絶を作り、懐風藻《かいふうそう》に載った。皇子は夙《はや》くから文筆を愛し、「詩賦の興《おこり》は大津より始まる」と云われたほどであった。
 この歌は、臨終にして、鴨のことをいい、それに向って、「今日のみ見てや」と歎息しているのであるが、斯く池の鴨のことを具体的に云ったために却って結句の「雲隠りなむ」が利いて来て、「今日のみ見てや」の主観句に無限の悲響が籠ったのである。池の鴨はその年も以前の年の冬にも日頃見給うたのであっただろうが、死に臨んでそれに全性命を托された御語気は、後代の吾等の驚嘆せねばならぬところである。有間皇子は、「ま幸くあらば」といい、大津皇子は、「今日のみ見てや」といった。大津皇子の方が、人麿などと同じ時代なので、主観句に沁むものが出来て来ている。これは歌風の時代的変化である。契沖は代匠記で、「歌ト云ヒ詩ト云ヒ声ヲ呑テ涙ヲ掩《おほ》フニ遑《いとま》ナシ」と評したが、歌は有間皇子の御歌等と共に、万葉集中の傑作の一つである。また妃|山辺皇女《やまべのひめみこ》殉死の史実を随伴した一悲歌として永久に遺されている。因《ちなみ》に云うに、山辺皇女は天智天皇の皇女、御母は蘇我|赤兄《あかえ》の女《むすめ》である。赤兄大臣は有間皇子が、「天与[#二]赤兄[#一]知」と答えられた、そ
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