りして居る。是は単に旅の歌だから自然この程度の感慨になるのだが、つまりは黒人流なのだということになるのであろう。
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此処《ここ》にして家《いへ》やもいづく白雲《しらくも》の棚引《たなび》く山《やま》を越《こ》えて来《き》にけり 〔巻三・二八七〕 石上卿
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志賀に行幸あった時、石上卿《いそのかみのまえつきみ》の作ったものであるが、作者の伝は不明で、行幸せられた天皇も、荒木田|久老《ひさおい》は、大宝二年|太上天皇《おおきみすめらみこと》(持統天皇)が三河美濃に行幸あった時、近江にも立寄られたのだろうと云っている。そうすれば石上麻呂であるかも知れない。左大臣石上麻呂は養老元年三月に薨じているから、後人が題詞を書いたとせば、「卿」でもよいのである。併し養老元年九月の行幸(元正天皇)の時だとすると、やはり槻落葉《つきのおちば》でいったごとく石上豊庭《いそのかみのとよにわ》だろうということとなる。この豊庭説が有力である。
旅を遙々来た感じで、直線的にいい下して、相当の感情を出している歌である。大伴旅人の歌に、「此処にありて筑紫《つくし》や何処《いづく》白雲の棚引く山の方《かた》にしあるらし」(巻四・五七四)というのがあって、形態が似ている。これは旅人の歌よりも早いものであるが、只今は二つ並べて鑑賞することとする。この歌の、「白雲の棚引く山を越えて来にけり」も、近江で詠んだのだから、直接性があるし、旅人のは京《みやこ》にあって筑紫を詠んだのだから、間接のようだが、これは筑紫に残っている沙弥満誓《さみのまんぜい》に和《こた》えた歌だから、そういう意味で心に直接性があるのである。
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昼《ひる》見《み》れど飽《あ》かぬ田児《たご》の浦《うら》大王《おほきみ》のみことかしこみ夜《よる》見《み》つるかも 〔巻三・二九七〕 田口益人
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田口益人《たぐちのますひと》が和銅元年|上野国司《かみつけぬのくにのつかさ》となって赴任《ふにん》の途上|駿河《するが》国|浄見《きよみ》埼を通って来た時の歌である。国司は守《かみ》・介《すけ》・掾《じょう》・目《さかん》ともに通じていうが、ここは国守である。浄見埼は廬原《いおはら》郡の海岸で今の興津《
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