人の一つの傾向とも謂うことが出来るであろう。この詠歎は率直簡単なので却って効果があり、全体として旅中の寂しい心持を表現し得たものである。黒人作で、近江に関係あるものは、「磯の埼|榜《こ》ぎたみゆけば近江《あふみ》の海《み》八十《やそ》の湊《みなと》に鶴《たづ》さはに鳴く」(巻三・二七三)、「吾が船は比良《ひら》の湊に榜ぎ泊《は》てむ沖へな放《さか》りさ夜《よ》ふけにけり」(同・二七四)がある。「沖へな放かり」というのは、余り沖遠くに行くなというので特色のある句である。「わが舟は明石《あかし》の浦に榜ぎはてむ沖へな放《さ》かりさ夜ふけにけり」(巻七・一二二九)というのは、黒人の歌が伝誦のあいだに変化し、勝手に「明石」と直したものであろう。
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疾《と》く来《き》ても見《み》てましものを山城《やましろ》の高《たか》の槻《つき》村《むら》散《ち》りにけるかも 〔巻三・二七七〕 高市黒人
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黒人※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2−88−38]旅八首の一つ、これは山城の旅になっている。原文の「高槻村」は、旧訓タカツキムラノであったのを、槻落葉《つきのおちば》でタカツキノムラと訓み、「高く槻の木の生たる木群《こむら》をいふ成《なる》べし」といって学者多くそれに従ったが、生田耕一氏が、高は山城国|綴喜《つづき》郡多賀郷のタカで、今の多賀・井手あたりであろうという説をたて、他の歌例に、「山城の泉《いづみ》の小菅」、「山城の石田《いはた》の杜《もり》」などあるのを参考し、「山城の高《たか》の槻村」だとした。爾来《じらい》諸学者それを認容するに至った。
一首の意は、もっと早く来て見れば好かったのに、今来て見れば此処の山城の高《たか》という村の槻の林の黄葉《もみじ》も散ってしまった、というので、高(多賀郷)の槻の林というものはその当時も有名であったのかも知れない。或は高というのは郷の名でも、作者の意識には、「高い槻の木」ということをほのめかそうとしたのであったのかも知れない。そうすれば、従来槻落葉の説に従って味って来たようにして味うことも出来る。この歌では、「山城の高の槻村散りにけるかも」という詠歎が主眼なのだが、沁みとおるような響が無い。また、「疾く来ても見てましものを」と云っても、いかにもあっさ
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