ていたものであっただろうし、そこで愛惜の心も強く附帯していることとなる。「迷はせる」は迷いなされたという具合に敬語にしている。これは死んだ者に対しては特に敬語を使ったらしく、その他の人麿の歌にも例がある。この一首は亡妻を悲しむ心が極《きわ》めて切実で、ただ一気に詠みくだしたように見えて、その実心の渦が中にこもっているのである。「求めむ」と云ってもただ尋ねようというよりも、もっと覚官的に人麿の身に即したいい方であるだろう。
なお、人麿の妻を悲しんだ歌に、「去年《こぞ》見てし秋の月夜は照らせども相見し妹《いも》はいや年さかる」(巻二・二一一)、「衾道《ふすまぢ》を引手《ひきて》の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし」(同・二一二)がある。共に切実な歌である。二一一の第三句は、「照らせれど」とも訓んでいる。一周忌の歌だろうという説もあるが、必ずしもそう厳重に穿鑿《せんさく》せずとも、今秋の清い月を見て妻を追憶して歎く趣に取ればいい。「衾道を」はどうも枕詞のようである。「引手山」は不明だが、春日《かすが》の羽易《はがい》山の中かその近くと想像せられる。
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楽浪《ささなみ》の志我津《しがつ》の子《こ》らが罷道《まかりぢ》の川瀬《かはせ》の道《みち》を見ればさぶしも 〔巻二・二一八〕 柿本人麿
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吉備津采女《きびつのうねめ》が死んだ時、人麿の歌ったものである。「志我津《しがつ》の子ら」とあるから、志我津《しがつ》即ち今の大津あたりに住んでいた女で、多分吉備の国(備前備中備後|美作《みまさか》)から来た采女で、現職を離れてから近江の大津辺に住んでいたものと想像せられる。「子ら」の「ら」は親愛の語で複数を示すのではない。「罷道《まかりぢ》」は此世を去って死んで黄泉《よみ》の国へ行く道の意である。
一首は、楽浪《ささなみ》の志我津《しがつ》にいた吉備津采女《きびつのうねめ》が死んで、それを送って川の瀬を渡って行く、まことに悲しい、というのである。「川瀬の道」という語は古代語として注意してよく、実際の光景であったのであろうが、特に「川瀬」とことわったのを味うべきである。川瀬の音も作者の心に沁《し》みたものと見える。
この歌は不思議に悲しい調べを持って居り、全体としては句に屈折・省略等も無く、むつかし
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