ゐつつ吾が哭《な》く涙やむ時もなし(巻二・一七七)
御立せし島の荒磯《ありそ》を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも(同・一八一)
あさぐもり日の入りぬれば御立せし島に下りゐて嘆きつるかも(同・一八八)
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敷妙《しきたへ》の袖交《そでか》へし君《きみ》玉垂《たまだれ》のをち野《ぬ》に過《す》ぎぬ亦《また》も逢《あ》はめやも 〔巻二・一九五〕 柿本人麿
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この歌は、川島《かわしま》皇子が薨《こう》ぜられた時、柿本人麿が泊瀬部《はつせべ》皇女と忍坂部《おさかべ》皇子とに献《たてまつ》った歌である。川島皇子(天智天皇第二皇子)は泊瀬部皇女の夫の君で、また泊瀬部皇女と忍坂部皇子とは御兄妹の御関係にあるから、人麿は川島皇子の薨去を悲しんで、御両人に同時に御見せ申したと解していい。「敷妙の」も、「玉垂の」もそれぞれ下の語に懸《かか》る枕詞である。「袖|交《か》へし」のカフは波《は》行下二段に活用し、袖をさし交《かわ》して寝ることで、「白妙の袖さし交《か》へて靡《なび》き寝《ね》し」(巻三・四八一)という用例もある。「過ぐ」とは死去することである。
一首は、敷妙の袖をお互に交《か》わして契りたもうた川島皇子の君は、今|越智野《おちぬ》(大和国高市郡)に葬られたもうた。今後二たびお逢いすることが出来ようか、もうそれが出来ない、というのである。
この歌は皇女の御気持になり、皇女に同情し奉った歌だが、人麿はそういう場合にも自分の事のようになって作歌し得たもののようである。そこで一首がしっとりと充実して決して申訣《もうしわけ》の余所余所《よそよそ》しさというものが無い。第四句で、「越智野に過ぎぬ」と切って、二たび語を起して、「またもあはめやも」と止めた調べは、まことに涙を誘うものがある。
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零《ふ》る雪《ゆき》はあはにな降《ふ》りそ吉隠《よなばり》の猪養《ゐがひ》の岡《をか》の塞《せき》なさまくに 〔巻二・二〇三〕 穂積皇子
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但馬《たじま》皇女が薨ぜられた(和銅元年六月)時から、幾月か過ぎて雪の降った冬の日に、穂積皇子が遙かに御墓(猪養の岡)を望まれ、悲傷|流涕《りゅうてい》して作られた歌である。皇女と皇
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