は一|眼《がん》全く濁り、片方の瞳《ひとみ》にも雲がかかつてゐた。遍路の話を聴くに、もとは大阪の職人であつた。相当に腕が利いたので暮しに事を欠くといふことが無かつたのだが、ふと眼を患つて殆《ほとん》ど失明するまでになつた。そこで慌てて大阪医科大学の療治を乞《こ》うたけれども奈何《いか》にも思はしくない、そのうち一眼はつぶれてしまつた。それのみではなく、片方の眼もそろそろ見えなくなつて来た。彼はせつぱつまつて思ひ悩んだ揚句《あげく》、全く浮世を棄《す》てて神仏にすがり四国遍路を思立つた。然《しか》るに、居処不定《きよしよふぢやう》の身となり霊場を巡《めぐ》つてゐるうちに、片方の眼が少しづつ見えるやうになつて来た。彼は益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》神仏にすがつて到頭四国の遍路を了《を》へた。その時には眼が余程|好《よ》く見えるやうになつた。
 その時彼は、もうこれぐらゐで沢山である。もうそろそろ信心の方も見きりをつけて浮世の為事《しごと》をして見ようと思つたさうである。そして逡巡《しゆんじゆん》してゐるうちに、眼は二たび霞《かす》んで来てもとのやうになりかけたさうである。
 
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング