彼は驚き心を決して二たび遍路の身になつてしまつた。そして既に数年を経た。けふは小口の宿を立つて熊野の方へ越えようとしてゐるのだと、かういふのであつた。
彼はさういふ事を事こまかに大阪弁で話した。併し僕は大阪弁を写生することが得手《えて》でないから、その儘《まま》書くことが出来ない。
遍路は、けれども現在の状態に安住してはゐなかつた。若い身空《みぞら》を働きもせず、現世《げんぜ》の慾望をも満たさうともせずにゐることが残念でならなかつた。彼は『いまいましい』といふ言葉を使つた。T君は遍路に五十銭|呉《く》れたが遠慮をしながら丁寧にそれをしまつた。それから遍路はM君の呉れた紙巻煙草を一本その場で吸つた。
僕等は遍路をそこに残して一足先に出発した。一山《ひとやま》巡《めぐ》つて、も一つ山にさしかからうとする頃うしろの方で鈴の音が幽《かす》かに聞こえてゐた。
『奴《やつ》も歩き出したね』
『あの奴なかなか面白いね。ぷりぷり云つてゐるところなんか面白いぢやないですか』
『いまいましいなんて云ひましたね』
『いまいましくても、遁世《とんせい》の実行家だね。あれだけの生活は加特利《カトリツク》教
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