》の国|諏訪《すは》郡のものであつた。T君はあの辺の地理に精《くは》しいので、直ぐ遍路の村を知ることが出来た。併《しか》しこの遍路は一生かうして諸国を遍歴してどこの国で果てるか分からぬといふのではなかつた。国には妻もあり子もあつたが、信心のためにかうして他国の山中をも歩き、今日は那智を参拝して、追々帰国しようといふのであるから前途はさう艱難《かんなん》ではなかつた。T君は朝鮮|飴《あめ》一切れを出して遍路にやつた。遍路はそれを押しいただき、それを食べるかと思ふと、胸に懸けてある袋の中に丁寧にしまつた。
僕などは、この遍路からたいへん勇気づけられたと謂《い》つていい、さうして遂に大雲取も越えて小口の宿に著いたのであつた。実際日本は末世《まつせ》になつても、かういふ種類の人間も居るのである。遍路は無論、罪を犯して逃げまはつてゐる者などではなかつた。遍路のはいてゐる護謨底《ごむそこ》の足袋を褒《ほ》めると『どうしまして、これは草鞋《わらぢ》よりか倍も草臥《くたび》れる。ただ草鞋では金が要《い》つて敵《かな》ひましねえから』といふのであつた。これは大正十四年八月七日のことである。
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