は一|眼《がん》全く濁り、片方の瞳《ひとみ》にも雲がかかつてゐた。遍路の話を聴くに、もとは大阪の職人であつた。相当に腕が利いたので暮しに事を欠くといふことが無かつたのだが、ふと眼を患つて殆《ほとん》ど失明するまでになつた。そこで慌てて大阪医科大学の療治を乞《こ》うたけれども奈何《いか》にも思はしくない、そのうち一眼はつぶれてしまつた。それのみではなく、片方の眼もそろそろ見えなくなつて来た。彼はせつぱつまつて思ひ悩んだ揚句《あげく》、全く浮世を棄《す》てて神仏にすがり四国遍路を思立つた。然《しか》るに、居処不定《きよしよふぢやう》の身となり霊場を巡《めぐ》つてゐるうちに、片方の眼が少しづつ見えるやうになつて来た。彼は益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》神仏にすがつて到頭四国の遍路を了《を》へた。その時には眼が余程|好《よ》く見えるやうになつた。
その時彼は、もうこれぐらゐで沢山である。もうそろそろ信心の方も見きりをつけて浮世の為事《しごと》をして見ようと思つたさうである。そして逡巡《しゆんじゆん》してゐるうちに、眼は二たび霞《かす》んで来てもとのやうになりかけたさうである。
彼は驚き心を決して二たび遍路の身になつてしまつた。そして既に数年を経た。けふは小口の宿を立つて熊野の方へ越えようとしてゐるのだと、かういふのであつた。
彼はさういふ事を事こまかに大阪弁で話した。併し僕は大阪弁を写生することが得手《えて》でないから、その儘《まま》書くことが出来ない。
遍路は、けれども現在の状態に安住してはゐなかつた。若い身空《みぞら》を働きもせず、現世《げんぜ》の慾望をも満たさうともせずにゐることが残念でならなかつた。彼は『いまいましい』といふ言葉を使つた。T君は遍路に五十銭|呉《く》れたが遠慮をしながら丁寧にそれをしまつた。それから遍路はM君の呉れた紙巻煙草を一本その場で吸つた。
僕等は遍路をそこに残して一足先に出発した。一山《ひとやま》巡《めぐ》つて、も一つ山にさしかからうとする頃うしろの方で鈴の音が幽《かす》かに聞こえてゐた。
『奴《やつ》も歩き出したね』
『あの奴なかなか面白いね。ぷりぷり云つてゐるところなんか面白いぢやないですか』
『いまいましいなんて云ひましたね』
『いまいましくても、遁世《とんせい》の実行家だね。あれだけの生活は加特利《カトリツク》教
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