徒の労働者なんかでは出来ないよ』
『強ひられた実行なんですね』
『さうかも知れない。併し観音力《くわんおんりき》にすがるところに盲目的な強味があるとおもひますね。一時流行した覚めた人間にはああいふ苦行《くぎやう》生活は到底出来ませんよ』
『しかしみんな遁生菩提《とんしやうぼだい》でも困りますからね』
『さうかも知れない』

 僕等は疲れきつて熊野本宮に著いたのは午後二時ごろであつた。そこで熊野権現に参拝した。熊野川は藍《あゐ》に澄んで目前を流れてゐる。けふの途中に、山峡からたまたま熊野川が見え出し、発動機船の鋭い音が山にこだまさせながら聞こえてゐたが、あれも山水に新しい気持を起させた。
 この山越は僕にとつても不思議な旅で、これは全くT君の励ましによつた。然も偶然二人の遍路に会つて随分と慰安を得た。なぜかといふに僕は昨冬、火難に遭《あ》つて以来、全く前途の光明《くわうみやう》を失つてゐたからである。すなはち当時の僕の感傷主義は、曇つた眼一つでとぼとぼと深山幽谷を歩む一人の遍路を忘却し難かつたのである。然もそれは近代主義的遍路であつたからであらうか、僕自身にもよく分からない。



底本:「斎藤茂吉選集 第八巻」岩波書店
   1981(昭和56)年5月27日第1刷発行
初出:「時事新報」
   1928(昭和3)年1月15日〜17日
入力:kamille
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月7日作成
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