遍路
斎藤茂吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)那智《なち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)那智|権現《ごんげん》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
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那智《なち》には勝浦《かつうら》から馬車に乗つて行つた。昇り口のところに著いたときに豪雨が降つて来たので、そこでしばらく休み、すつかり雨装束《あましやうぞく》に準備して滝の方へ上つて行つた。滝は華厳《けごん》よりも規模は小さいが、思つたよりも好かつた。石畳《いしだたみ》の道をのぼつて行くと僕は息切れがした。
さてこれから船見《ふなみ》峠、大雲取《おほくもとり》を越えて小口《こぐち》の宿《しゆく》まで行かうとするのであるが、僕に行けるかどうかといふ懸念があるくらゐであつた。那智|権現《ごんげん》に参拝し、今度の行程について祈願をした。そこを出て来て、小さい寺の庫裡口《くりぐち》のやうなところに、『魚商人門内通行禁』と書いてあり、その側に、『うをうる人とほりぬけならん』と註してあつた。
滝見《たきみ》屋といふところで、腹をこしらへ、弁当を用意し、先達《せんだつ》を雇つていよいよ出発したが、この山越は僕には非常に難儀なものであつた。いにしへの『熊野道《くまのみち》』であるから、石が敷いてあるが、今は全く荒廃して雑草が道を埋めてしまつてゐる。T君は平家《へいけ》の盛な時の事を話し、清盛《きよもり》が熊野路からすぐ引返したことなども話して呉れた。僕は一足|毎《ごと》に汗を道におとした。それでも、山をのぼりつめて、くだりにならうといふところに腰をおろして弁当を食ひはじめた。道に溢《あふ》れて流れてゐる水に口づけて飲んだり、梅干の種を向うの笹藪《ささやぶ》に投げたりして、出来るだけ長く休む方が楽《らく》であつた。
そこに一人の遍路《へんろ》が通りかかる。遍路は今日小口の宿を立つて那智へ越えるのであるが、今はかういふ山道を越える者などは殆《ほとん》ど絶えて、僕等のこの旅行なども寧《むし》ろ酔興におもへるのに、遍路は実際ただひとりしてかういふ道を歩くのであつた。遍路をそこに呼止め、いろいろ話してゐると、この年老いた遍路は信濃《しなの
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