と溯《さかのぼ》るであらう。深夜人無きに乗じてその堤防を破つて、故意に酸い水を淡水の川に灑《そそ》いだものがあつた。その酸い水が混じると、魚の族は真黒になるほど群がつて川下へ川下へとくだる。それを梁《やな》で取れるだけ取つて、暁にならぬうちに家に帰つて知らんふりしてゐるのである。これを『酢川落《すかお》ち』と唱へる。
暁に先立つて草刈《くさかり》に行く農夫の一人二人がそれを見つけて、村役場へ届ける。村役場では人足《にんそく》を出して堤防の修理をする。然るに一方では村の老若男女童男童女が我先にと川へ出かけて行つて、弱り切つてゐる魚を捕まへるので、つまり余得《よとく》にありつくのである。この『酢川落ち』はさうたびたびは無い。また村人も一種の楽みとおもふので、役場がそれを大目に見て、罪人を発見しようと努めるやうなことはない。『酢川《すか》おとし』の行為は法に触れるべきものであるが、『酢川おち』の現象は村民にとつては無くてはならぬ、謂《い》はば一つの年中行事の如き観を呈するに至つた。それがずつとずつと古い代から続いて来たのである。泳《およぎ》を知らない、常には川遊などをしない八十吉が、この『
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