。村の家から豊かに煙の立ちのぼるのを見極めると、仁兵衛はいつも著換《きがへ》してその家に行く。その家には必ず婚礼があつた。祝言《しうげん》の座に請《しやう》ぜられぬ仁兵衛ではあるが、いつも厚く饗《きやう》せられ調法におもはれた。仁兵衛は持前の謡をうたひ、目出度《めでた》や目出度を諧謔《かいぎやく》で収めて結構な振舞《ふるまひ》を土産に提げて家へ帰るのであつた。村の人々はその男を『煙仁兵衛《けむりにへゑ》』と云つた。
その仁兵衛が或る夜上等の魚を土産に持つて帰途に著くと、すつかり狐に騙《だま》されてしまふところを父はよく話した。どろどろの深田に仁兵衛が這入《はひ》つて酒風呂《さかぶろ》のつもりでゐる。そして、『あ、上燗《じやうかん》だあ、上燗だあ』と云つてゐるところを父は話した。そこのところまで来ると父のこゑに一種の勢《いきほひ》が加はつて子供等は目を大きくして父の顔を見たものである。父は奇蹟を信じ妖怪変化《えうくわいへんげ》の出現を信じて、七十歳を過ぎて此世を去つた。
寺小屋が無くなつて形ばかりの小学校が村にも出来るやうになつた。教員は概《おほむ》ね士族の若者であつた、なかには中年
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