みづかさ》が大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層に衝《つき》当つてそこに一つの淵《ふち》をなしてゐたのを『葦谷地《よしやぢ》』と村人が称《とな》へて、それは幾代《いくだい》も幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までも溯《さかのぼ》ることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に蘆荻《ろてき》の類が繁《しげ》つてゐて、そこをいろいろの獣類が恣《ほしいまま》に子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵蝕《しんしよく》されて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦切《よしきり》がかしましく啼《な》いてゐるこゑが今僕の心に蘇《よみがへ》つて来ることも出来た。その広々とした淵はいつも黝《くろ》ずんだ青い水を湛《たた》へて幾何《いくばく》深いか分からぬやうな面持《おももち》をして居つた。
瞳《ひとみ》を定めてよく見る
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