すると、僕のうしろの方で人力車《じんりきしや》の車輪の軌《きし》る音がした。さうしてヘエ、ヘエ、といふ懸声《かけごゑ》がした。これは避《よ》けろといふ合図に相違ないから、父は当然避けるだらうとおもつてゐると依然として避けない。その刹那《せつな》にどしんといふ音がして人力《じんりき》の梶棒《かぢぼう》がいきなり僕の尻のところに突当つた。父は前にのめりさうになつた。
 すると父は突嗟《とつさ》に振向きしなに人力車夫の項《うなじ》のところをつかまへて、ぐいぐい横の方に引いたから人力車がくつがへりさうになつた。人力車夫は慌しく梶棒をおろさうとしたが父はなほ攻勢をゆるめない。人力車夫はつひに左方になつて倒れた。父は人力車夫の咽《のど》のあたり項のあたりを二三度こづいたが、それでも人力車夫は再び起き上つて父と争はうとした。そのとき乗つてゐた老翁が頻《しき》りにそれを止め父に詫《わび》をした。
 父は威張つた恰好《かつかう》で尻を高くはしより再び街道の真中を歩いた。その老翁を乗せて後から来た人力車は今度は僕らを避《よ》けて追越して行つた。追越すときに車夫は何か口の中で云つてゐたが父はそれにはかまはな
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