も塵《ちり》の立ちのぼるやうなことはない。両側に密生した松林がしばらくの間続いてゐて寂しいやうである。人どほりの尠《すくな》い朝のうちで、街道は曲折のなるべく無いやうについてゐるから、遙《はる》か向うから人の来るのが見えてその人に逢《あ》ふまでには大分かかる。それからその人が後の林の角に見えなくなるまでも大分かかる。さういふ街道《かいだう》を父はいい気持で歩いて行つた。時節は初夏の頃ではなかつたらうかと思はれる。さういふ記憶は朦朧《もうろう》としてゐるが、松蝉《まつぜみ》でも鳴いてゐたやうな気持もする。
 上山《かみのやま》は温泉場で、松平藩主の居城《きよじやう》のあつたところである。御一新《ごいつしん》後はその城をこはして、今では月岡《つきをか》神社の鎮座になつてゐる。後年俳人の碧梧桐《へきごどう》がここを旅して、『出羽《では》で最上《もがみ》の上山《かみのやま》の夜寒かな』といふ句を残した。僕の村からこの広い新道を通つて上山まで小一里ある。そこまで村の人が大概買物などに行つた。
 さういふ街道を父は独占したやうなつもりで街道の真中《まんなか》を歩いて行つた。然るに稍《やや》しばらく
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