打つた時、双葉の右足が前に出てゐるのは必定で、安芸がこれを懸命に防がんとして左足が外掛けにからんだ瞬間に、双葉の両廻しをぐいつと満身の力で引きつけて浴せかけたものだから安芸の寄り身が物を云つたのだらう』云々。この批評は、深切、丁寧で、刻々の実技に即してゐて、まことに名批評と謂ふべきである。そんならどうしてこの名批評が出来るかといふに、同じやうな実技の経験を幾度となく踏んだ人が、自分で相撲を取つたつもりで物いふのだから、批評に中味があるわけである。藤島取締の相撲評は毎年読んでゐるのだが、今回のは対象が対象だし、ほかに多くの批評が出たため、比較するのに便利でもあつたが、実に私は感服した。
 双葉山の話はこれでおしまひにする。しかしアララギは文芸の雑誌だから、何か関聯をつけた方が好いといふのなら、歌の批評にも、相撲における藤島取締の批評のやうなものが常に存すべきだといふやうなアナロギーを持つて来れば好いわけである。
 さう云ふけれども、実際はなかなかさうは行かない。気心で物いつたり、読みたての書物で物いつたり、自分の作物の注解、分疏として物いつたりいろいろである。さういふ事に関聯して、去年こ
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