一つはいかにも相撲通らしい穿ち、一つはいかにも学者らしい観念の整理である。しかしかういふ結論なら、双葉山自身のいつてゐる、『負ケ癖がついたんでせう』の簡明なのには及ばないだらう。
 ただ、相撲通の言説は私なんかも常に傾聴してゐるのだが、神経のインネルワチヨンをも籠めた、肉体力の総和を第一の条件要約とする相撲であるから、議論は先づ第一にその条件からして極めてかからねばならぬのである。肉体のことを云々するのがナンセンスなら、何も彼もナンセンスといふことになつてしまふではないか。
 今夜の話は、相撲のことになどなつて、歌の雑誌にふさはしくないやうであるが、これは相撲の論議ばかりでなく、小説の批評などにも、見て来たやうな、尤も尤もと強ひるやうな『穿ち』が多くて、私などの気に喰はぬのがあるから、そこで双葉山を借りて一言話したのであつた。もう一度いふと、双葉山は本場所は、『体の調子が本当で無いのである』。その他のことは第二第三の問題、或はその第一条件から続いてあらはれる随伴現象と謂ふべきである。さう私は考へて居る。
 追加談。一月二十六日の読売新聞に、小島六郎氏の春場所総評があつて、随分丁寧な評で
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング