「谿間《たにま》を見おろすことが出来る。その谿間は一めんに落葉でうづまつてゐる。そして、しいんとして仕舞つて、今は一鳥だも啼かない。ここで満山の落葉を見おろしてゐる気持は、あはれな留学生の身の上でも、やはり感ずるに堪へたるものであつた。僕は、「空山寂歴として道心生ず」といふシナ文人の詩句などをおもひおこしながら、しばらくそこに停立してゐた。
僕の上《のぼ》つて来た道はもうずつと細くなつて下の方に見えてゐる。そのとき、遙か下の方から人ふたりが上つて来た。男と女だ。その遠人《ゑんじん》目なしの男女が、少しづつ大きくなつて来るのを見てゐるのがいい気持である。すると、その二人は坂のなかばでひよいと抱合つて接吻をした。接吻はなかなか離れない。
山水中に点出せられた豆人形ほどの人間の接吻はほとんど小一時間もかかつた。それから二人はほぐれて、だんだん僕のゐるところに近づいて来た。そして二人は、何かひそひそ話しながら僕の前を通つて行つた。
その時、僕は何だか蔑《さげす》むやうな気持で二人を見つめてやつた。男は痩せて鋭い顔をしてゐる。山のぼりの仕度をして、背嚢《ルツクサツク》を負つてゐる。女は稍|
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