ども、これは気を落付けなければならぬと思つて、少し後戻りをして、香柏の木かげに身をよせて立つてその接吻を見てゐた。その接吻は、実にいつまでもつづいた。一時間あまりも経つたころ、僕はふと木かげから身を離して、いそぎ足で其処を去つた。
 ながいなあ。実にながいなあ。
 かう僕は独語した。そして、とある居酒屋に入つて、麦酒《ビール》の大杯を三息《みいき》ぐらゐで飲みほした。そして両手《もろて》で頭をかかへて、どうも長かつたなあ。実にながいなあ。かう独語した。そこで、なほ一杯の麦酒を傾けた。そして、絵入新聞を読み、日記をつけた。僕が後戻して、もと来し道を歩いたときには、接吻するふたりの男女はもう其処にゐなかつた。
 僕は仮寓にかへつて来て、床のなかにもぐり込んだ。そして、気がしづまると、今日はいいものを見た。あれはどうもいいと思つたのである。

       二

 西暦一九二三年一月一日。けふは元日だと思つて床から辷《すべ》り出た。冷い水で髭を剃り、朝食をぐんぐん済まして、三十八番の電車に乗つた。電車はまだすいてゐる。ゆうべは除夜で、〔|Cafe'《カフエ》 Atlantis《アトランチス》
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