、切手持つてゐない。持つてゐたら僕に頂戴。などと云つたりした。けれども僕はさういふものにはかかはらずに歩いた。歩道はやや寂しくなつて人どほりも少い。闇のいろはおのづから濃くなつたけれども、西方の空には、まだ淡黄の光を再び絹ごしにしたやうないろが、澄み切つた蒼《あを》い空のいろにまじつて残つてゐる。
 そこの歩道に、ひとりの男とひとりの女が接吻をしてゐた。
 男はひよろ高く、痩せて居つて、髪は蓬々としてゐる。身には実にひどい服を纏《まと》ひゐる。うつむき加減になつて、右の手を女の左の肩のところから、それから左手は女の腰のへんをしつかりおさへて立つてゐる。口ひげが少し延びて、あをざめた顔をしてゐるのが少し見える。女はのびあがつて、両手を男の頸のところにかけて、そして接吻してゐる。女は古びた帽をかぶりゐる。それゆゑ、女の面相は想像だもすることは難い。
 僕は夕闇のなかにこの光景を見て、一種異様なものに逢著したと思つた。そこで僕は、少し行過ぎてから、一たび其をかへり見た。男女は身じろぎもせずに突立つてゐる。やや行つて二たびかへりみた。男女はやはり如是《によぜ》である。僕は稍不安になつて来たけれ
前へ 次へ
全18ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング