多少の曲折を經なければならなかつた。
これより先、明治三十六年十月のことである。神田の寶亭で琴天會の發會があつた。岩村透さんの主唱であつたと思ふが、畫家、音樂家、その他新らしい藝術に縁のあつた人たちが集つた。巴里の藝術家の物に拘束されぬ生活に親しんで來た人々である。勿論この會に狂瀾怒濤を惹き起した二三の連中に就いては、わたくしは餘り知るところがなかつたのであるが、その放縱不覊の調子には全く醉はされてしまつたのである。實はわたくしもその會合の中に紛れこんでゐて、感激して、「琴天會に寄す」と題した小曲を作つて
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手弱女しのべば花の巴里の園生、
朽ちせぬ光暢べたるみ空趁へば、
なつかし、伊太利亞の旅路、精舍の壁。
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と拙い詩句を連ねて見たものゝ、それでは格別に上品すぎてゐた。わたくしは唯素直に藝術の自由を讚美して見たかつたまでのことである。
琴天會は翌年になつて水弘會とか云ふ名稱に改まつて、麻布は新龍土町の龍土軒で開かれた。琴天會といつたのは琴平社天神社の縁日を、今また水弘會と稱ふるのも矢張同樣の結合せで、水天宮と弘法大師の縁日を會日と定める
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