であつた。この畫報が間もなく日露戰の勃發により「戰時畫報」と改稱されてから獨歩君の活躍は目ざましいものがあつた。自然我々の會合は獨歩君を迎へることになつて、急に賑はしくなつた。獨歩君は柳田君と共に談話の名人であつた。獨歩君の創作はおほむね小篇であり、人はその描寫の筆致を褒めるが、作者はその筋を大抵二三度は友人に繰り返し語つたものである。推敲がその間に行はれたと想像するのは強ち不當でもあるまい。然しわたくしは後に書かれて公にされた作品よりも、既に聽いて感銘を受けてゐた談話の方をよろこんだ。そしてその談話の熟したものが獨歩君の創作であつたとすれば、そこに談話家の特徴を爲すユウモアが活用されてゐることを怪しむべきではない。それが間髮を容れず打出されて一瞬の反省を與ふると同時に、その餘裕ならぬ餘裕が歪曲すべからざる客觀の事實を愈々鮮明ならしめてゐる。これがわたくしの發見であるかどうかは別として、柳田、國木田兩君の外に田山君もまたしたゝかの談話家であつた。會合は否が應でも面白くならざるを得なかつたのである。然しこの頃となつても定まつた會名もなかつたぐらゐで、それが龍土會と稱せられるまでには、なほ
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