無念が忽《たちま》ちに動く。坊ちゃんはよしやに跟《つ》いて、石に躓《つまず》きながら駈けて出る。
「そうだ。これが忽然念起だ。」
 頭のなかを、そんな考が、たわいもなく、ふと閃《ひらめ》いて過ぎる。
 しかし鶴見はそれ以上深入りすることを恐れた。はっきりとではなかったが、あまり唯心の妙説に牽《ひ》かされて、理心の中で抽象されたくはなかったからである。ただ『起信論』が衆生心に据わって物を言っているのが親しまれた。
 鶴見は鶴見で、『起信論』とは不即不離の態度を取って、むしろ妄心起動を自然法爾《じねんほうに》の力と観て、その業力《ごうりき》に、思想の経過から言えば最後の南無をささげようとしているのである。魔を以て魔の浄相を仰ぎ見ようとするのである。鶴見はそういうところに信念の糸を掛けて、自然に随順する生を営んで行こうとしている。つまるところ、無を修して全を獲《う》る。そこで日々の勤めは否定されねばならない。その最後の一線はどうして踏《ふ》み踰《こ》えるか。ここで逡巡することは許されない。
 その最後の一線を踰えるには自然の業力を頼みとするより外《ほか》にないのである。至上の力を頼んで最後の
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