いた。転居するおりには、いつでも掘り起して持って行き、そこに移しうえた。木はそれでも枯れずにいた事は、鴎外の抽斎伝に中に書いてある。何かの薬になるというので、抽斎の家にその木のあるのを知った人々が一枝を貰いに来る。ただそれだけのことが書いてある。別に考証はしていない。
 ※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−19]は唐詩の中でしばしば見当る。※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−19]が外来植物であるのは周知の事実である。叡山の根本中堂《こんぽんちゅうどう》の前にその木があるという。鶴見はまだ見ないが、泡鳴《ほうめい》がそれについて一度語ったことを覚えている。伝教大師《でんぎょうだいし》の時代まで遡《さかのぼ》るとすれば、その渡来も随分古いものである。しかしその割に世にひろまっていない。
 東京ではその木を見掛けなかったようである。鶴見が始めてその生態に接したのは、初度《しょど》に鎌倉に移ってからのことである。
 雪の下の僑居《きょうきょ》の筋向いに挿花《そうか》の師匠が住んでいて、古流では名人に数えられていた。その家の入口の前坪《まえつぼ》に四つ目を結《ゆ》って、その内側
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