。その形象は妄執に相応する動物として示されねばならない。暗黒の中の光明、苦悩を蝉脱《せんだつ》する献身も、やがてそこから生ぜねばならない。
 鶴見の動物観は人間を輪廻の一環と見做《みな》している。人間の霊が永遠の女性に導かれて昇天するよりも、永遠の輪廻の途を輾転《てんてん》するのが順当だと思っているのである。迷妄の中で仏縁にあずかりたいのである。地上の夢の深刻さは味いつくし難いものがある。初はあろうが終はないものである。
 鶴見はそんな事を考えていて肩荷を重くした。それを緩《ゆる》めようとして、思量を植物に転じた。石蒜《せきさん》のことから鴎外を引き合いに出した。そして放肆《ほうし》な考察はいつしか鴎外の文学の芸術性にまで及んだ。鶴見はいまさらのように、はてしない空想の飛躍におどろいている。しかしまたかれは自己の空想の放散を快く思っていぬのでもない。

 植物のことが頭の中を一杯に占めている。植物にも動物の爪が生えているのではなかろうか。頭の中がその爪でむやみにひっ掻き廻わされているような刺戟を感ずる。
 鶴見は単に植物を観賞しようというのではない。かれの考はその伝来と実用性との関係を
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