えるのか。」

 鶴見が新聞に出した短文というのは、平安朝時代に卯の花熱が急に昂《たか》まって、殿中の女房たちを田園に引き寄せた事実に対して、うつぎ[#「うつぎ」に傍点]の果実が薬種であり、田舎に移植され、それが垣に、将《はた》また畑地の境界に、盛んに生育して花を咲かせたのも、そのもとをいえば、そういう実用があったがためであろうと推量して、うつぎ[#「うつぎ」に傍点]を漢土から渡来のものではあるまいかとの考を述べてある。外国からの伝来には種々な動機もあり機縁もある。万葉時代の梅もそのとおりである。この事もちょっと短文の中に書き加えてある。
 鶴見には植物に限らず、一国の文化を推進せしめるものは外国文化の影響刺戟に因《よ》るものであるという信念がいつからか萌《きざ》していてさして発育もしなかったが、根は抜けずに、そのままになっていて、萎《しお》れるということもなく持ちこたえている。これまでは一般にそういうような研究もどこやら遠慮がちなところがあった。それではいけない。各方面の人々の手でもっと大胆に検討する必要があろう。鶴見は自分で研究が出来ぬまでも理解は持っていたので、そういう方面の課題
前へ 次へ
全232ページ中70ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蒲原 有明 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング