折々開けて、新機運に促されつつ進展して行く人の世の風光を心ゆくばかり打眺めて佇《たたず》んでいる姿がある。暁《あかつき》の夢にその面影を見かけたといったとしても、誰がそれを過度の空想を逞《たくまし》うしたものといってむげに非難し得るであろう。
生命は滞《とどこお》るところなく流動する。創造の華が枯木にも咲くのである。藤原南家の郎女《いらつめ》が藕糸《はすいと》を績《つむ》いで織った曼陀羅《まんだら》から光明が泉のように涌《わ》きあがると見られる暁が来る。
釈迢空さんは『死者の書』の結尾にこういっている。「姫の俤《おもかげ》びとに貸すための衣に描いた絵様《えよう》は、そのまま曼陀羅の相《すがた》を具えていたにしても、姫はその中に、唯一人の色身《しきしん》の幻を描いたに過ぎなかった。しかし残された刀自《とじ》、若人たちのうち瞻《まも》る画面には、見る見る数千の地涌《じゆ》の菩薩の姿が、浮き出てきた。それは幾人の人々が、同時に見た、白日夢《はくじつむ》のたぐいかも知れぬ。」
迢空さんの美しい文章はいつまでもその書を読むものを手招きしている。鶴見もまた迢空さんに誘われて、何かもう少しい
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