太子《じょうぐうたいし》御生誕後幾年になる。」
これには鶴見も途方にくれている。傍《かたわら》に一冊の年表でもあれば頼りになるのであるが、それもない。やっとのことで、大正十年が一千三百年の遠諱《おんき》に当るということに気がついた。『日本書紀』は文庫本でこの頃手に入れたが、その本文から年代の纏《まとま》った知識を得ることは容易でない。年表がやはり必要になってくる。幸に鴎外の集なら借覧を許されていた。その集の中に、ふだんは余り注意しない文章であるが、『聖徳太子|頌徳文《しょうとくぶん》』というのがある。「皇国啓発の先覚、技芸外護の恩師」と冒頭に書き出してある、あの文章のことである。鴎外はこの祭文《さいもん》を太子一千三百年遠諱記念の式場において、美術院長の資格で読み上げたことになっている。大正十年四月十五日である。これは確な資料に違いない。鶴見はそれを手がかりとして、更に平氏《へいし》撰と称されている『伝暦《でんりゃく》』を披《ひら》いて見た。静岡からこの地に舞い戻って来た当時古本屋をあさって『五教章』の講義と共に、最初に購ったのがこの書である。彼の頭にいつも太子がこびりついていた。そ
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