からぶさ》より上りて一帯の高原をよぎる、くだればすなはち呼子《よぶこ》、そのあひだ凡《およそ》五里ばかり。
この高原の玄海洋《げんかいなだ》に斗出《としゆつ》するところ、奇巌をあらはすものを「七ツ釜」となす。その巌は削れるがごとくそばだち、刻めるがごとく畳みたり、荒波の間より起り、大空を劃《かぎ》れるさまの荘厳なるはいふばかりなし。こは玄武《げんぶ》岩とか、おのおの六角の柱をなす、あるは縦ざまに、あるは横ざまに、恣に錯綜するがごときも、その裏に崩すべからざる式と律とを具へたりと見ゆ。否、しかく造りいだせるちから[#「ちから」に傍点]は、再び量るべからざる勢を現し、まのあたり、破壊のしわざ[#「しわざ」に傍点]は振りあぐる槌を下すのひまに起らんかを想像せざれば止まざらむとす。随てはやて[#「はやて」に傍点]か、随てつなみ[#「つなみ」に傍点]か、――此時感情の海と思想の空とは、恰も雲走り、潮うづまくの状《ありさま》を制する能《あたは》ずして、百千《ももち》の巌はその一箇をだも動かすべからず、はた寸毫も犯すべからざるがごとし。進んでは、かかる天然の城廓のうちに籠れる神霊の座に到らむと欲《おも》ふ精進の一念、つひに棄つるに難かり。さばかりにして、風や濤や幾千万年、動かすべからず、犯すべからざる巌をつき崩しえて深き洞窟を穿ちたる、そを数へて、所謂「七ツ釜」の称は、いつしか、玄海洋の海岸より伝へられけるなり。
棹《さをさ》して小舟を洞窟のうちにやれば、たちまち身は凄まじきものの呼吸に触るるをおぼゆ、袖のあたり、頭のうへ、船べりのもと、悉く、危き岩石の牙を噛めるにあらざるはなく、そが罅隙《こげき》より搾《しぼ》りいださるる水は膠のごとく滴り、ここに通へる潮の色はあやしき光を漾はすところ、ただ暗黒のつばさに覆はれたる冥界の消息の幽かに声ならぬ声に伝へらるるあるのみ。かかれば、洞窟の深きは知るべからずといふ、さあれ今、一個の伝説を抜き来り、そが解釈を味ふの頗る旨ふかきをおもふ。筑前、某所の海岸におなじく一つの洞窟あり、海水日夜に流れ入ること毫も潮の干満に関することなければ、必ず冥路の底に通ふものとして知られたり。古、ところの漁夫、そぞろ好奇のこころに駆《かりたて》られ、洞窟の窮《きはま》るはてを探らむと欲《おも》ひ、一日舟を進め入れたりしなり。冥界の大魔が嚥《の》みくだす潮の流は矢よりも疾し。舟は※[#「倏の犬のかわりに火」、第4水準2−1−57]《たちま》ち暗黒の裡に衝いて奔り、人は急転の勢を制する暇なく、以上ただ運命の司配に任すありしのみ。いよいよ深き所に到れば、一異人の遮りて大呵するに遇ふ、曰く――ここより進まば再び世に帰ることあたはざらむ、爾《なんぢ》はすみやかに黄泉の国に到らむなり、やよ、舟をかへせ。と漁夫はその語《ことば》を聴くやすでに魂魄《こんぱく》のあるところをおぼえず、夢のごときものわづかに醒むれば、この時彼が身はもとの浜べに、しかも恙《つつが》なく、しかも乗れる舟は朽ちて、――朽ちて、土よりも脆きなり。その悦ばしさとこの訝しさとに、浜の真砂路も蹈《ふ》み迷はれて、彼はただちに村に入る、光景の何ぞ全く変りはてたることや、世の転変は一日にして見られたるなり。されば、家どころも索《もと》むるによしなく、途に逢ふ人々の怪しむさまは著《しる》きに、はじめておのが姿をみとめつつ、白髪の地に曳くばかりなるを撫し、かばかり老いさびたりしを駭《おどろ》くに堪へざりしも、理《ことわり》なり、とく千年の日月はこの翁が冒険の夢の裡に過ぎ去りにき。――と、上のごときはその伝説なり。また古人が、かかる洞窟にかかはる想像のいかなるものなりしかは知るに難からじ。
「七ツ釜」にあそぶには、呼子《よぶこ》より船をやとふこと便なり。「呼子、片島、殿の浦」――まづ、その調子の盛んなるに聴けば、ほぼこの港の状況も察せらるべし。加部《かべ》島は湾口をおほひて風波をさへぎり、雅致ある鷹島には私立の燈明台そびえ、弁天島、小瀬戸を界として名護屋港に連り、海深く、潮あぶらのごとし。今は商権殆ど唐津に移れるより、昔時の繁盛を見るなしといふ。されども夕に、燈《ともしび》の紅なるもの波にくだけて、かれは片島(加部島の一端)、これは殿の浦、呼子とあひ対して、絃歌の興は舟人の酔をたすけたり。もしそれ、夜半の月、檣《ほばしら》のうへに傾く時、この景にむかふもまた一脈の情致なくばあらず。
あしたには霧あはくかけわたす、加部島をながむれば、模糊たる影、水彩を薄絹にほどこせるがごとし。ゆふべには大気さわやかなり、外界よりたえず吹きくる軟風は最も呼吸にかなふ、鷹島の側面は狂瀾のあと弧を描きたるが、やうやく黄昏のかげを含み、嶺《いただき》に建てる燈台の光は疾く夕庚《ゆふづつ》とかがやきを争はむとす。これら凡て濃《こまや》かなる自然の布置《ふち》は洵《まこと》に愛すべきものあり。
呼子の市街を纏へる阜《をか》の半腹には、愛宕《あたご》、天満、権現、八幡などの諸殿堂、その他二三の寺院は緑樹のあひだに連り、かしこに朱《あけ》の欄干はその半勾をほのめかし、ここに苔しろき石燈はその数段をあらはし、全景のうへより見たるところ、おのづから一|幀《てい》の絵画を披《ひら》くに似て、いともうるはし。この阜のいただきに公園地あり、木の下道清く掃《はら》ひて、瀟洒なる茶亭を設く。呼子湾を圧するながめこころよし。ここよりは小川、加唐《かから》の島々をも指点しうるべく、東南の空はるかに筑紫富士をのぞむ。
加部島には田島神社あり、狭依姫《さよりひめ》、湍津姫《たぎつひめ》、田霧姫《たごりひめ》、三柱の姫神を祀る、天平十三年の創営なり、大同元年祭祀料十六戸を付せられ、貞観元年従四位下を贈られ、元慶八年従三位に進み、明治維新の後、国幣中社たるもの。社境内に佐用姫神社の小祠あり、かの有名なる望夫石[#「望夫石」に傍点]を納めたり。姫、領巾振山を下り、松浦川を渉りここに到りて、船路はるけく灘の沖に連るところ、慕へる人の面影は見るあたはず、あだ波の寄せては返す小島の渚に転び伏し、声をのみて嘆けどもすべもなく、滂沱《ぼうだ》たる涙にあらはるる身は、さながら一塊の石と化したりきと伝ふ。
また本社の拝殿に一の扁額をかかぐ、神庫に蔵《をさ》められし小鷹丸の艦材を刻めるものなり。この艦《ふね》、文禄征韓の役に用ひられ、迅速なること神のごとかりしかば、豊太閤あやしみて、これを神庫にをさめきといふ。一片の扁額、なほ当年の遺物たり。そも名護屋の古城趾は如何の観かある。
呼子より殿の浦の背後を上り、やがて名護屋の渡りに下る湾頭きはまるところ更に入江をなし、あひせまれる両岸の崖は、影を清き潮に※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れっか」、第3水準1−91−44]《ひた》す。涼風は漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さざなみ》を吹きよせたり、渚のさざれは玉よりも滑かなり、眠れる渡守を呼び醒し悵然《ちやうぜん》として独り城山に対す。この時、「荒城臨古渡 落日満秋山」の感慨|荐《しき》りにうごくといへども、あにさばかり意気の銷沈したるものあらんや。
さあれ、城山に登りて見る、本丸、二の丸、三の丸の跡は、青き苔と、女蘿《ひかげ》、蔦などに掩はれたる石垣の所々に存するあるにすぎず。それさへ歳々《とし/\》に頽《くづ》れ墜つといふ、保存の至らぬは悲むべし。しかのみならず、一片の碑だに、英雄の事蹟を誌し弔《とむら》ふなきに於ては、誰かはそを憾みとせざらむ。朝鮮の俘虜を囚へこめしところのあとといふも、夏草の生ひ茂るにまかせ、うばら、からたち、較《やや》もすれば足を投《いる》るの隙なからむとす。征韓のことは洵に豊公一代の経営なるかな、されども、この海角の荒野原を剰《あま》すにだも漸く難からむとするを看れば、英雄といへども、一たび地下に瞑するや、千古の威名、はた虚栄に過ぎざるごとし。「公の薨後三百年、ことし、京都阿弥陀峯なる奥津城どころを修め、追弔紀念《つゐてうきねん》の祭典をあげたり、いささか公が御霊を慰むるものあらむか。」公かつて鎌倉山に覇気の寒きをあはれみ、頼朝の像を撫すること、恰も垂髫児《うなゐ》を愛づらむがごとかりき。はしなくもこのことありしを思ひいで、かくも荒れはてたる城山の空しき風に対する時、さしもの雄図も、今や、日月と共に、遠き過去に属したるを愴《いた》むの情いよ/\深からざるを得ざるなり。
風くろく、雨しろし、いかづち轟き、濤いかる、壱岐海峡の気圧ます/\低し。――自然の気象はたま/\当年の威武を回想するに好箇の紀念を供すべきなり。おもひを馳せて遠きをのぞむ、壱岐の島煙波ふかく鎖し、近海の諸島――「加唐《かから》、加部島《かべしま》、波戸《はと》、馬渡《まだら》」なるもの悉く双の眸に映じ来る。地はかくのごとく形勝を占め、眺望太だ闊達なり、ために大に、この胸の鬱を放ち、かの心をして宏うせしむるものあり。
時に松風ひびきあがり、野飼の駒たてがみを振ひ、首を擡《もた》げ、高く嘶《いば》ゆることやまざりき。傍に砕けたる瓦の堆《うづたか》きがあり、そのあひだを抽《ぬ》きいでて、姫百合の一もと花さくもあはれなり。
草場|船山《せんざん》の句あり、かの瓦もて製《つく》りたる硯に題する古詩のうちに――
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豈図[#(ヤ)]故国大星墜[#(ツ)] 七年[#(ノ)]辛苦空[#(ク)]涕涙、
高城依[#レ]旧臨[#(ム)][#二]海[#(ニ)]※[#「土へん+斥」、第3水準1−15−41][#一] 無[#(シ)]復[#(タ)]蛾眉佐[#(ノ)]歓酔。
如今更[#(ニ)]閲[#(ス)]幾星霜 城墟只見[#(ル)]草茫々、
田火有[#レ]時拾[#二]遺瓦[#一] 猶認[#(ム)]桐花旧徽章。
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瓦に桐花の紋章を焼きたるものは既に殆あさりつくされたり。
諸将陣営のあとは所々に散在す、みな数株の松を植う。広沢寺の庭に有名なる大|蘇鉄《そてつ》あり、韓土より齎《もたら》し来りしもの、寺は豊公の寵姫《ちようき》、広沢姫《ひろさはひめ》の居りしところといふ。
ああ、かくて城山を下る。
この地方に来りて忘るべからざるは捕鯨のことなり。呼子近海には小川島名だかし、されど、北松浦の平戸生月を最も盛んなりとす。露伴、幸田氏のものされたる、「いさなとり[#「いさなとり」に傍点]」を繙《ひもと》けば、その壮観、目に親しく睹《み》るがごとき詳細なる記述に接す、われ敢てここに贅《ぜい》せず。
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巨鬣掀[#(テ)][#レ]潮噴[#(ク)][#二]雪花[#(ヲ)][#一] 万夫攅[#(テ)][#レ]矛海門譁[#(シ)]
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[#地付き]頼 山陽
*
われ、すこしの閑をえて、以上の地に遊びたるは、二十八年、八月のことなりき。天さばかり風景に留連するの日子をたまはず、北松浦には一歩をも踏み入れざりし、これ洵に遺憾なりとす。されば、蒙古の襲来と、「国姓爺《こくせんや》」の戯曲とをもて有名なる平戸の島、さては黄海の風潮を観て、ただちに東亜の危機に処せんとするわが海軍の根拠地たる佐世保に就ては、未だ述ぶるあたはざるなり。
これを要するに、「松浦あがた」の地、殆その全部に亙りて山嶽縦横に連り、海岸はおほむね断崖をなし、出入はなはだしく、また所々に港の良きものを開く、佐世保、仮屋《かりや》、呼子《よぶこ》、及び唐房《とうばう》湾の如きは、その例なり。大小の島々に至りては数へつくしがたし、かかれば海岸の風光、つねに、大に多様多趣なるなきあたはず、そのながめや麗はしく、その彩色や明かなり。
山間の地は勢ひ人煙薄からざるをえざれども、ひとり有田に於てしからず、このごろ益々繁栄を来せり。すべて土地高燥なれば、気おのづから爽かなり。
しかれども山の高きと、川の広きと、はた肥沃なる平野の大なるものとを欠けば、これを筑前の国に比するに、彼にありては、博多(
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