松浦あがた
蒲原有明
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)栄《サガ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)見|温仙岳《うんぜんだけ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「縢の糸に代えて土」、107−上−4]
[#…]:返り点
(例)黄櫨成[#レ]列
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)忽|従《ヨ》[#(リ)]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)これ各《おの/\》
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一
「黄櫨成[#レ]列隴※[#「縢の糸に代えて土」、107−上−4][#「※[#「縢の糸に代えて土」]」は底本では※[#「月+祭」]]間 南望平々是海湾 未[#レ]至[#二]栄《サガ》城[#一]三五駅 忽|従《ヨ》[#(リ)][#二]林際[#「際」は底本では「※[#「縢の糸に代えて土」]」][#一]得[#(タリ)][#二]温山[#(ヲ)][#一]。」
とはこれ頼山陽が「見|温仙岳《うんぜんだけ》」の絶句――この詩を誦し去りて、われらは先づ肥前の国に入る。「温泉《うんぜん》はちまき、多良頭巾《たらづきん》」といふこと、これをその国のある地方にて聴く、専ら雲の状《ありさま》を示せるもの、おもしろき俚諺《ことわざ》ならずや。温泉岳と、多良岳と、かれに焦熱の地獄あれば、これに慈悲の精舎《しようじや》あり、これに石楠花《しやくなげ》の薫り妙なれば、かれに瓔珞《やうらく》躑躅《つゝじ》の色もゆるがごとし、一《いつ》は清秀、他は雄偉、ともに肥前の名山たることはしばしば世に紹介せられたりし、かつ題目の制限を超ゆるあたはざれば、これより直に、北のかた、松浦あがたの空を望まむかな。
南、島原半島の筑紫富士(温泉岳)と遥にあひたいし、小城《をぎ》と東松浦との郡界の上に聳え、有明海沿岸の平野を圧するものを天山《てんざん》――また、あめやま[#「あめやま」に傍点]ともいふ――となす。この山ことに高しとにはあらざれども、最《もつとも》はやく雪を戴くをもて名あり。蓋《けだ》しその絶巓《いただき》は玄海洋《げんかいなだ》をあほり来る大陸の寒風の衝《つ》くに当ればなり。
更に転じて西松浦の郡界に到れば、黒髪山《くろかみやま》の擅《ほしいまゝ》に奇趣を弄ぶあり、巉巌《ざんがん》むらがり立てるはこれ正に小耶馬渓《せうやばけい》。いにしへ大蛇あり、その箏《たかんな》のごとき巌に纏ふこと七巻半、鱗甲《りんかふ》風に揺《うご》き、朱を濺《そゝ》げる眼は天を睨む、時に鎮西八郎射てこれを殪《たふ》し、その脊骨数箇を馬に駄す、その馬重きに堪へず、嘶いて進まざりしところ、今に駒鳴峠《こまなきたうげ》の名を留めたり。
黒髪山の近くに源を発するもの、有田川あり、伊万里川あり、松浦川あり、その流域は「松浦あがた」のうち最主要なる部に属す。有田川は西南に流れて皿山を過ぐ。ここははやくより、磁器の製造をもて、その名世に布《し》く。いはゆる有田焼の名産を出すところなり。維新の前、藩侯の通輦《つうれん》あるや、毎《つね》に磁土を途に布きて、その上に五彩を施せしといふ、また以て、窯業《えうげふ》の盛なるを想ふに足るべし。
次に伊万里川は北に流れ、大河内の近くを過ぎ、伊万里町を貫き、有田川の末とおなじく、牧島湾に注ぐ。大川内は「御用焼」もて知られしところ、今はたゞ蕭条たる一部落の煙を剰すに過ぎず。伊万里町は殷賑《いんしん》なること昔時に及ばずといふ。ここより盛に陶磁器を輸出せし時代やいかなりけむ。ロングフェロオが「ケラモス」と題したる詩のうちに、世界の窯業地《えうげふち》としてその名をかずまへ、うるはしき詞もて形容せる数行の句は聊《いささ》か現今の衰勢を慰むるに足りなむか。町の一端に岩栗神社あり、孝元天皇第四の皇子を奉祀す。天平のむかし藤原広嗣一万余騎の兵を嘯集《せうしふ》し、朝命に乖《そむ》き、筑前、板櫃川《いたびつがは》に拠る、後やぶれて、松浦郡なる値嘉島《ちかのしま》に捕へらる。時の副将車、紀飯麻呂《きいひまろ》この地に到り、祭壇を設けて紀氏の祖を祀りしに創れりと伝ふ。因にいふ伊万里の名称は飯麻呂の転訛なりと、いかゞあるべき。
いかづち夕に天半《なかぞら》を過ぐ、烏帽子、国見の山脈に谷谺《こだま》をかへせしその響は漸く遠ざかれり、牧島湾頭やがて面より霽れたれども、退く潮の色すさまじく柩を掩ふ布のごとき雲の峯々の谷間に埋れゆくも懶《ものう》げなり。くしや、この黄昏の空より吹きおろす秋風は遽《にはか》に万点の火を松浦富士(越岳《こしだけ》)の裾野に燃しいでたる。焔は忽ち熾《さかり》なり、とみれば、また、かつがつうちしめて滅し去る、怪みて人に問へば、これ各《おの/\》わが家の悲しき精霊《しやうりやう》の今宵ふたたび冥々の途に就くを愴《いた》み、そが奥津城《おくつき》どころに到りて「おくり火」焚くなりと教へられし一夜をわれは牧島村長の小高き阜《をか》の上の家に宿りたりし。
いで、次に松浦川の流はそも如何なる風色をか呈し来る。伊万里の東二里ばかり、桃川の宿あり。南より流れ落る水は滝つ瀬をなしたるが、ここにて、その響のたゞならぬを聴く、これ松浦川の上流。
山間の冷気は夜松浦川の渓を襲ひ、飽くまで醸しなされたる狭霧は恰も護摩壇の煙のごとし。そが中に屡々《しばしば》悪魔のごとき黒山の影の面を衝いて揺くに駭《おどろ》きつ。流を左に沿ひて大河野《おかの》に到り、右に別れて駒鳴の宿に入るや既に深夜を過ぎたり。駒鳴峠の嶮坂を越ゆれば、松浦川の支流なる波多川《はたがは》の沿岸に下るをうべし、われは新開の別路を択《えら》べり。篝火《かがりび》の影の濃き霧に映ずるところ、所々に炭坑を過ぐ。夜はいまだ明けざるなり。途にて荷車を曳きゆく老爺と、うらわかき村の乙女の一隊との唐津《からつ》へ出づるに遇ふ。我は太《はなは》だ力《つと》めたりといへども、こころよく笑ひゆく彼等に続くあたはずして、独のこされしことの殆夢のごとかりき。いな、これより二時《ふたとき》ばかりを熟睡のうちに過したるなり、醒むれば雑草ふかく鎖《とざ》せる、荒屋の塵うづたかき竹椽の上に横れる。
ああ、まのあたり何等の活図画《かつとぐわ》ぞや! 今や天地は全く暗黒の裡を脱して明麗なる朝の景を描き出だす。簇々《むら/\》とまろがりゆく霧のまよひに、対岸の断崖は墨のごとく際だち、その上に生ひ茂る木々の緑の霑《うるほ》へる色は淀める水の面なづる朝風をこころゆくばかり染めなしたり、川くまを廻り来る船は苫《とま》をかかげて、櫓声ゆるく流を下す、節おもしろき船歌の響を浮べ、白き霧は青空のうちにのぼりゆく、しかも仍《なほ》朝日子《あさびこ》の出でむとするに向ひてかの山の端を一抹したる、看るからに万物生動の意はわが霊魂《たましひ》を掩へる迷妄《まよひ》の雲をかき払ひて我身|宛《さなが》ら神の光のなかに翔《かけ》りゆくここちす。すなはち自然の秘をさぐる刻下の楽《たのしみ》は、わがつかれ[#「つかれ」に傍点]とうゑ[#「えゑ」に傍点]とを忘れしめたるなり。ややあれば、瑠璃の艶あざやかなる朝顔の籬の下を走りくる童あり、呼びとどめ、所の名を問へば久保と答ふ。地図に就て案ずれば、ここより唐津に到るにはなほ三里を余す。前なる流は正しく松浦川の下流。
佐賀市を距る十数里、小城《をぎ》を通ぜる国道と会し、往方《ゆくて》は坦《たひら》かなること砥のごとく、しばらくにして牟田部《むたべ》をすぐ、ここも炭坑のあるところなり。松浦川もまた養母田《やもた》にて波多《はた》川の水と合し、夕日山の麓にそひ、幾多雅趣ある中洲をめぐり来り、満島《みつしま》の岸を洗ひ、舞鶴城の残趾を噛みて、つひに松浦潟に注ぐ。
二
満島は松浦川の口に構へられたる一|小寰区《せうくわんく》なれども商業活溌なり、唐津の旧城下とあひむかへて、共に益々《ます/\》発達の勢を示せり。唐津は望みある土地なり、これを伊万里に比するに、まづ天然の風気に於て優に幾十段の懸隔あるをおぼゆ。彼にありては牧島湾、浅く、狭く、且つ年々に埋りゆけば、おのづから船舶の出入に不便を感ぜざるをえず、僅かに魚塩の利を保つに過ぎざらむとす。これに代つて起つもの豈《あに》唐津にあらざらむや。
鎮守府の佐世保(北松浦にあり)、石炭の唐津、しかも後者は白砂青松、おほくえやすからざる遊覧地なるをや、啻《ただ》に遊覧地なるのみならず、その近傍は上代及近世に亙りて、歴史の上に関はるもの尠からず、また山光といはず、水色といはず、乃至、一茎の撫子、一羽のかち烏[#「かち烏」に傍点](肥前の特産)にも、飄霊の精気活躍するを看れば悉く詩歌のこころに洩るるはあらじ。
筑前一帯の海岸は福岡、博多を中心として較《やや》世人に知られたり。しかれども海の中道《なかみち》を称するもの多からざるを悲む。そが明媚なる沙線の一端に連なるは志賀島《しかのしま》なり、この島の白水郎《あま》の歌などいひて、万葉集に載するものくさぐさあり、皆可憐の趣を備ふ。天平六年、新羅《しらぎ》に遣はさるる使人等の一行は、ここ志賀の浦波に照りかへす月光を看て、遠くも来にける懐郷の涙をしぼり、志摩郡の唐泊《からどまり》より引津泊《ひくつどまり》に移り、可也《かや》の山べに小男鹿《さをしか》の声の※[#「口+幼」、第4水準2−3−74]々《えう/\》たるを聴き、次で肥前国狛[#「狛」に傍点]|島《しま》に船をとどめたりしその夜の歌にいはく
[#ここから2字下げ]
たらし姫みふねはてけむ松浦のうみ
妹がまつべき月にへにつつ
[#ここで字下げ終わり]
と、その古《かみ》、神功皇后|韓国《からくに》をことむけたまひ、新羅の王が献りし貢の宝を積みのせたる八十艘の楫《かぢ》を連ねてこの海に浮べるを憶ひおこし、はしなくも離れ小島の秋かぜに荻の花の吹きちるを詠《なが》むる身は、朝廷《みかど》の大命の畏くて、故郷に残しおきつる妻子の今宵や指かがなへて帰るを待つらむなど、益荒武雄《ますらたけを》の心ながらも宛ら磯礁《いそいは》に砕くる白波に似たりけり。一首の三十一文字のむね洵《まこと》にかくのごときものあり。
出でて裏浜《うらはま》(唐津町の)の真砂の上に※[#「彳+尚」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《しやうやう》の歩を移せば海上呼べば応へんとすばかりなる鳥島より右に後ろにさけて高島はその名のごとくそばだち、なほ遥かに左に偏《かたよ》りたるところに島の影の低《ひく》く見ゆるが、これぞ――かしは[#「かしは」に傍点](神集)島なり。万葉集に狛[#「狛」に傍点]島《しま》と書きたる、字面の謬あるよしは前人もすでに言はれき。ここにて軍議をこらせしことありしやに朧ろげながらいひ伝ふ。もとより上代のことならむ。
鳥島と裏浜とはあひ距《さ》ること僅に数町にすぎず、そのあひだ漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さざなみ》つねに穏かなり、かつ遠浅なれば最も海水浴に適す。夏の暁、潮風涼しく、松の林の下道|零《こぼ》るる露の滋《おほ》きとき、三々また五々、老幼を問はず、男女を択ばず、町に住める人々の争て、浜辺に下りゆくを見る。清きうしほに漬《ひた》りつつ、首《かうべ》をあげてまさに日の出でむとする方に向へば、刃金《はがね》、雷《いかづち》の連亙起伏する火山脈の極るところ、形塩尻のごとき浮岳は勃※[#「山/卒」、110−上−21]《ぼつそつ》として指顧のあひだに聳ゆ――雲を被《かつ》ぎて眠れるがごときもの漸く醒め来れば半面の微紅は万畳の波に映じ、朝霧のはれわたるままに、遠き海づらは水銀《みづがね》のごとく耀きて志摩半島の翠螺《すゐら》をのぞむ。
また、徐《おもむ》ろに舟を遣り、やがて鳥島に纜《ともづな》を繋ぐ。島は周廻幾ばかりもあらぬが悉く岩石の累々たるのみ。堅緻《
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