けんち》なる火山岩は統ぶるものなくうち紛《みだ》れたり、これとかれと互に合はむとして曾て合はず、満ちし潮のいつしかその罅隙《ひま》に溢れたるが、はげしき夏の日にあたためられ、ここに適度の温浴を供す。もし松浦潟の冷かなる波をかつげるのち、凍えたる手足を恣に投ずれば温泉身を浮ぶること雲のごときあらむ。折しも鴎の鳥のうち羽ぶきゆくあり、そが雪なす翅の巴絵《ともゑ》を描くにみちびかれて、いまここより舞鶴城の残趾を回視《かへりみ》むは最《た》えがたき好機会なるべし。
 城の廓《くるわ》に用ひられたる石材はこの島より斫《き》りいだしきといふ。海よりただちに高く築き上げられたる外観の極めて美はしく、逞しきは、古三韓の地も優に指揮に任《まか》すべく、その風姿せまらざるものあり。聞く、豊太閤の名護屋に城《きづ》くは結構宏壮を極む、後こぼちて、そをここに移したりきと、すなはち広沢氏、大久保氏より伝へて、近くは小笠原氏の居城たりしなり。封建の制度の弛めると共に、天守台の影も失はれ、櫓の姿も消え遂に拓かれて公園地となるに至りたれば、もとの面影の十が一をも想像するに難かり。ただ歳古る木々の梢を交へて蓊鬱《をううつ》たるが、深藍いろの空を噛みて悠遠なる歴史を語らんとする――あに豊公以後三百年とのみ言はむや、連想ははやく吾人を駆つて南北朝に遡り、源平の代に遡りては、いはゆる「松浦党」の生活を捜らしめ、更に上つ代に、気長足姫命《おきながたらしひめのみこと》の大なる稜威のほどを称へまつらくす。
 唐津岳は、後景《ばつくぐらうんど》に布き、裏浜および虹の松原は左右の翼のごとく飜り、満島より続きたる城下の市街の白堊はその間を点綴《てんてい》し、澄みわたる大空に頭をもたげ、万斛《ばんこく》の風を呼吸し、はるかに靺羯《まつかつ》の大野原を見さけんとするは、この城の姿勢なり――厳かなれども、逼《せま》らず。うべ、「まひづる[#「まひづる」に傍点]」の称の因あることや、また、誰かその鳴く音の高くして清きを聴かむと欲せざる。
 われ鳥島にあそびしその日の夕、舟を松浦川口にとどめ、私《ひそか》におもひに堪へざりしことの今なほ記憶に新たなるものあり、キイツが「いかばかり、われは愛づるよ、うるはしき夏のゆふべに」のソンネットは洵にここに於て唱へらるべきをおもふ、二度、三度唱へて、その意ますます尽きざらむ。只看れば、日の入るかたの空は黄金いろに燻りて名残の光のさまよへる、また匂はしき西風は一片の白雲を静かに漾《ただよ》はせたるよ。――詩人が愛づるを言ひしは、かかる折なりき。ながむるに卑しき念を脱し、塵の世のわづらひより避《のが》れ、理路の難《むづ》かしきを辿らで、暢《のびや》かなるこころは、たやすく自然の美もて装はれたる界《さかひ》の薫はしきあたりに到りうべく――ここに快楽の裡に包まれたる霊魂《たましひ》――燃ゆるがごとき胸に響く愛国のしらべ、――ミルトンの運命と、シドニイの最期《さいご》、――続いて歌ひけらく、「つひには彼等名士が面影をして、まのあたりに現ぜしめざれば飽かざらむとす。もし幾たびか、清き涙を揮ひつつ、歌のつばさもて天かけるそが姿をみかふる時しあれ、わが双の眼を封ぜむとするは|一種朗か《サムメロオヂヤス》なる|悲み《サロオ》にあらずや」と。
 明麗なる夏の夕の感慨まことにかくのごとし。暢美の景に対して熱誠をもとめ、闊達の気象のうちに涙をふくむもの。古《いにしへ》、国のために力を尽しし歌人の思想を汲み運命を偲び、そが韻律の朽せぬにほひを慕ふにあたり、おのづからなる感情は、正に「ほがらかなる悲み」ならむかし。神功皇后の大稜威、はた豊太閤の事蹟おほくこの松浦の地にかかはる、山光、水色ために異彩を添へ、神助を人事と及び天然とあひ経緯する歴史の偉観はすなはち大なる叙事詩なり。しかれども人や遂にむなしくその事を伝へて今日に到れるあひだ、歳月は一様の律調《リズム》を刻むといふものから、なほ時と代とによりて、その声の高低なくばあらざりき。しかも現今、その精神のますます発揚せられむとするとともに、東洋の前途いよいよ危し。そもや、わが「やまと民族」の運命はいかなるべき、日夜憂へて止まずといへども、これなほ過去を憂ふるごときものならむか。ながめ[#「ながめ」に傍点]麗はしく、こころ[#「こころ」に傍点]ひろやかなる松浦の天地は恰《あたか》も望を未来に属し、闊達の気象を修養すべきわが国民の胸懐に似たるものあり。かくて、われ憂ふるところのものありとすれば、「朗かなる悲み」の語は、移してわが感慨を表すに余あるをおぼゆ。
 石炭の唐津は既に特別輸出港の栄誉を担ひたり。鉄道の工事まさに就《な》らんとす、交通の便大に開くべきなり。さもあらばあれ、詩歌の唐津は、白雲と湖のにほひとのうちに埋れて、いかに大雅の士をまつことの久しきかをわれは知らざるなり。

     三

 満島より東、浜崎に到るのあひだ、松浦川と玉島川との挟《さしはさ》める一帯の海岸なるかな、そもそも何によりてかただちに人を魅するの力ある、さながら夢幻の境のごときもの、これ虹の松原!
 ある人、虹[#「虹」に傍点]の松原の称は二里[#「二里」に傍点]の松原の訛れるなりといふ。ああ、まことに二里[#「二里」に白三角傍点]の松原[#「松原」に白三角傍点]か――あにその数量に於て寸分の差違なきを得んや。しかり、われは唯里程の概算をうるの益あるよりも、寧ろ恍惚として、わが一歩をだに忘れむとするの楽を択ぶなり。天人の羽衣もて劫の石を撫づる[#「天人の羽衣もて劫の石を撫づる」に傍点]てふ譬喩《ひゆ》のいかに巧に歳月の悠久なる概念を与ふるかを知らば、おなじく「虹の松原[#「虹の松原」に白丸傍点]」と唱《うた》ひてこそ、はじめて尽ざる趣は感情の底より湧き来り、未だその地の真景に接せざるも、はやくその概相の瞭然たるものあらむ。
 近き海上に高島ありといへども、玄海灘の潮は殆ど遮るものなく押寄せ来り、極まるところ、玉島川及び松浦川の水とあひ激し、あひ待ちて、この海岸に最正しき沙線を撓《たわ》めたるなり。潮の色や青く、砕くる波や白し、いさご明かなり、松みどりなり、加ふるに東雲《しののめ》のむらさきと、夕映のくれなゐとは、波を彩り、沙《いさご》にうつり、もろもろの麗はしき自然の配色は恣に変幻するがごときも、しかも斎《つつま》しくこれを渚の弧線の上に繋ぎて、いみじくも優しき調和を見せたり。想へば恵まれたるながめなるかな、ただ要時《しばし》、中空にかかりぬべき虹の橋は、やがて常住の影をここにあらはすがごとし、そのかがやく欄干《おばしま》に凭《よ》りて、わが霊魂《たましひ》は無限の歓喜を受けたりき。
 以太利《いたりや》の風光にあくがれし詩人、シェレエが「ピサに近きカシネの松ばら」と題してものしたる歌の中に就きて、回想せし楽しき逍遥の日は「なよ風松が枝に巣ごもり、荒波海ぞこに歛《をさま》れりし」なり、われ虹の松原に遊べる折やまたかくのごとかりき。
 背後に屏風を畳《たた》むは、これ領巾振山《ひれふりやま》――虹の松原の絶景をして平板ならざらしむるはこれあり、うち見るところ、造化の作の中にありて極めて拙劣なるもの、擲《なげう》つてこれを棄て、謬《あやまつ》てここに横へたりしがごとし。もしその尾上《をのへ》に嘯《うそぶ》きたち、大海原のあなたを見わたさむか、雲と濤とあひ接《まじは》り、風は霧のごとく、潮は煙に似たる間を分けわく船の帆影は、さながら空なる星かと見まがふばかりなり。さては遠きに倦みたる眼を伏せて、羊腸《やうちやう》たる山路の草かげに嫋々《なよ/\》と靡ける撫子《なでしこ》の花を憐れむも興あるべし。やがて胸はその花のごとく燃ゆるをおぼえ、情《こころ》はかの帆影の星のごとく漾《ただよ》ふをわかざらむとす、そは佐用姫《さよひめ》の古事を憶ひいづればなり。姫が狭手彦《さでひこ》の船を見おくりつつ、ここより空しく領巾《ひれ》ふりけむと、かきくるる涙にあやなや、いづれを海、いづれを空、夢か現《うつつ》かのそれさへ識るの暇もなく、宛《あたか》も狂へるものの如くに山を下り、松浦川を渉りしをりのかたみ[#「かたみ」に傍点]とて、その川の畔に、姫が踏みしめし足かたの今もなほ石に凹《くぼ》めるがありといふ。
 狭手彦の軍を卒《ひき》ひて、任那《みまな》を鎮め、また高麗《こま》を伐《う》ちしことは書《ふみ》に見ゆ。すべてそのころの歴史の局面は、遠く、ひろく、三韓の野山を包み、干戈《かんくわ》つねに動きて止まず、任那の日本府また危からんとするの間に於て、悲壮なること、酸鼻なること、太だ鮮《すくな》しとせず。征討の軍の中には妻子をも具したり、悲さは独り佐用姫のところのみならむや。
 英雄(秀吉)の一喝をうけて、鳴く蝉の声を聴かずといはるる松原の中ほど、浜崎街道にのぞみて三軒茶屋の名を留むるがあり。千利休得意の茶を点じて豊太閤に薦めしところなりといふ。
 浜崎を過ぐれば、ただちに玉島川の水瀬の音のさざれに響くを聴く、流の清く澄めること比《たぐ》ひなし。勢《いきほひ》海に尽きたる山脈を分ちて、筑前国、怡土郡《いどごほり》と界す。かの「みこころしづめの石」もて知られたる深江《ふかえ》の里を隔つること僅かに数里。
 川のかなたに大村神社あり、広嗣の霊を祀る。彼れが時|政《まつりごと》の得失を指し、表を上《たてまつ》りて、僧の玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]《げんばう》とともに除かんとせし吉備真備《きびのまきび》の創建なりといふ。天平十八年、太宰府観世音寺の、造営|就《な》るをつげ、その供養の日、導師をつとめたる紫袈裟の破戒法師(玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13])は、※[#「倏の犬のかわりに火」、第4水準2−1−57]《たちま》ち虚空の中に捉へ去られ、その首、のちに興福寺の唐院に墜ちたりと、世の人伝へて広嗣が霊の祟となす。太宰少弐(広嗣)この世に納《い》れられず、謬て賊名をとりきといへども、たちどころに軍卒一万余を嘯集せるがごとき、敗れて値嘉島《ちかしま》より船出したるがごとき、その胆略計るべからざるものあり。「われは大忠臣なり、神霊何ぞ棄てむや。」と罵《ののし》りしに至つては、意気のさかんなること焔のごとし。また松浦明神として祀られしなど、すこぶる天慶の将門に似たらずや。
 さあれ、玉島川といふ、鮎の名産あるを知るとともに、神功皇后の事蹟をおもひ起さずばあらず。川に沿ふて上ることしばらく、両岸の山あひ蹙《しじま》り、渓せまく、煙しづかにして、瀬のおと逾《いよ/\》たかし、南山の里に入れば緑なる阜《をか》の上に皇后の祠を拝するの厳かなるを覚ゆ。嵐うづまくところ、老樹の枝は魂あるもののごとく、さながら当年の金鼓の響を鳴すに通ふ。そが下にたてる「垂綸碑《すゐりんのひ》」は篆字《てんじ》はやく苔むして見ゆ。殿堂金碧の美なしとはいへ、おのづから粛穆《しゆくぼく》の趣あり。俯して谷川をのぞむ、皇后そのかみの卯月、河の中の磯に在《いま》して年魚《あゆ》を釣りたまひけるところ。「朕《われ》西のかた、宝の国を求めむとおぼす、もしことならば川の魚つりくへ。」と祈《の》みたまへる御声の朗かなるを、水脈《みを》しろく漲り落つる瀬のおとの高きがうちに聴くがごとき心地す。やがては、乙女の眉《まよ》びきのごと、はた天つ水影の押伏せて見ゆる向津国《むかつくに》も御軍の威に懼《おそ》れ服《まつろ》ひけむをおもふ時、われは端なくも土蜘蛛、熊襲《くまそ》なんどの栄えたりし古の筑紫に身をおくがごとくて、遽《すみやか》に神の御前を去りあへざりき。
 されどまた試みに憶良の歌を誦すれば、いとも優しき玉島川は歴史以外におのづから絶えせぬ情の水の清くしてゆるやかなるものあるべし。――

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松浦なる玉島川にあゆつると
   たたせる子らが家ぢしらずも
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何ぞそのこころの遠くして、その調のあがれることや。

     四

 唐津より西北、佐志をすぎ、唐房《
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