たるなり。ややあれば、瑠璃の艶あざやかなる朝顔の籬の下を走りくる童あり、呼びとどめ、所の名を問へば久保と答ふ。地図に就て案ずれば、ここより唐津に到るにはなほ三里を余す。前なる流は正しく松浦川の下流。
佐賀市を距る十数里、小城《をぎ》を通ぜる国道と会し、往方《ゆくて》は坦《たひら》かなること砥のごとく、しばらくにして牟田部《むたべ》をすぐ、ここも炭坑のあるところなり。松浦川もまた養母田《やもた》にて波多《はた》川の水と合し、夕日山の麓にそひ、幾多雅趣ある中洲をめぐり来り、満島《みつしま》の岸を洗ひ、舞鶴城の残趾を噛みて、つひに松浦潟に注ぐ。
二
満島は松浦川の口に構へられたる一|小寰区《せうくわんく》なれども商業活溌なり、唐津の旧城下とあひむかへて、共に益々《ます/\》発達の勢を示せり。唐津は望みある土地なり、これを伊万里に比するに、まづ天然の風気に於て優に幾十段の懸隔あるをおぼゆ。彼にありては牧島湾、浅く、狭く、且つ年々に埋りゆけば、おのづから船舶の出入に不便を感ぜざるをえず、僅かに魚塩の利を保つに過ぎざらむとす。これに代つて起つもの豈《あに》唐津にあらざらむや。
鎮守府の佐世保(北松浦にあり)、石炭の唐津、しかも後者は白砂青松、おほくえやすからざる遊覧地なるをや、啻《ただ》に遊覧地なるのみならず、その近傍は上代及近世に亙りて、歴史の上に関はるもの尠からず、また山光といはず、水色といはず、乃至、一茎の撫子、一羽のかち烏[#「かち烏」に傍点](肥前の特産)にも、飄霊の精気活躍するを看れば悉く詩歌のこころに洩るるはあらじ。
筑前一帯の海岸は福岡、博多を中心として較《やや》世人に知られたり。しかれども海の中道《なかみち》を称するもの多からざるを悲む。そが明媚なる沙線の一端に連なるは志賀島《しかのしま》なり、この島の白水郎《あま》の歌などいひて、万葉集に載するものくさぐさあり、皆可憐の趣を備ふ。天平六年、新羅《しらぎ》に遣はさるる使人等の一行は、ここ志賀の浦波に照りかへす月光を看て、遠くも来にける懐郷の涙をしぼり、志摩郡の唐泊《からどまり》より引津泊《ひくつどまり》に移り、可也《かや》の山べに小男鹿《さをしか》の声の※[#「口+幼」、第4水準2−3−74]々《えう/\》たるを聴き、次で肥前国狛[#「狛」に傍点]|島《しま》に船をとどめたりしその夜の歌に
前へ
次へ
全16ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
蒲原 有明 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング