ら》べて大《たい》へん短《みじか》く、舊石器時代《きゆうせつきじだい》の十分《じゆうぶん》の一《いち》にも足《た》りないくらゐです。
[#「第二十六圖 ヨーロツパ新石器時代人想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_27.png)入る]
 新石器時代《しんせつきじだい》になると氣候《きこう》その他《た》、世界《せかい》の状態《じようたい》は今日《こんにち》と餘《あま》り變《かは》つたところなく、たゞ海岸線《かいがんせん》が今《いま》よりも陸地《りくち》に入《い》り込《こ》んでゐたといふくらゐに過《す》ぎないのです。その時代《じだい》に棲《す》んでゐた獸類《じゆうるい》も、今日《こんにち》われ/\の見《み》るものと大《たい》した變《かは》りはなく、あのまんもす[#「まんもす」に傍点]といふ大《おほ》きな象《ぞう》や、馴鹿《となかい》がヨーロッパなどに棲《す》んでゐるといふようなことはもうなくなつてしまひました。一體《いつたい》新石器時代《しんせつきじだい》の人間《にんげん》は、どんな所《ところ》に住《す》んでゐたかといひますと、もちろん洞穴《ほらあな》に棲《す》むものもあり、山間《さんかん》にゐるものもありましたが、海岸《かいがん》近《ちか》くに住居《じゆうきよ》して、魚《さかな》や貝《かひ》を捕《とら》へてその肉《にく》を食《く》つたものが多《おほ》いようです。それで、その當時《とうじ》の人《ひと》が住居《じゆうきよ》した跡《あと》が海岸《かいがん》附近《ふきん》に遺《のこ》つてゐて、かれ等《ら》が食《く》つてすてた貝殼《かひがら》や、魚《さかな》や獸《けだもの》の骨《ほね》などがたまつてゐる所《ところ》があります。かういふ場所《ばしよ》では、白《しろ》い貝殼《かひがら》が一番《いちばん》よく目立《めだ》つので、われ/\はこれを貝塚《かひづか》と呼《よ》んでをるのであります。貝塚《かひづか》の中《なか》からは貝殼《かひがら》や骨《ほね》のようなものゝ他《ほか》に、その時分《じぶん》の人間《にんげん》が使用《しよう》してゐた石器《せつき》だとか骨器《こつき》だとか、また土器《どき》だとかの破損《はそん》してすてられたものや、あるひは遺失《いしつ》したものなどが發見《はつけん》せられます。この貝塚《かひづか》は前《まへ》に申《まを》しましたように、元來《がんらい》海岸《かいがん》に棲《す》んだ人間《にんげん》の住居《じゆうきよ》の傍《そば》に出來《でき》た塵埃《じんあい》すて場《ば》であります。ですから何《なに》しろ海岸《かいがん》に近《ちか》い場所《ばしよ》にあつたに相違《そうい》ありませんが、今日《こんにち》では海岸《かいがん》から遠《とほ》く、時《とき》には數里《すうり》も離《はな》れた所《ところ》にあることがあります。これはその後《ご》陸地《りくち》が隆起《りゆうき》し、海《うみ》がひいてしまつたのです。またその反對《はんたい》にデンマルクなどのように、海《うみ》が陸地《りくち》ををかして來《き》たので、今日《こんにち》では海中《かいちゆう》に貝塚《かひづか》が浸《ひた》つてゐるところもあります。
 この貝塚《かひづか》を始《はじ》めて研究《けんきゆう》した人《ひと》は、デンマルクの學者《がくしや》でありました。最初《さいしよ》は、たくさんの貝殼《かひがら》は、果《はた》して昔《むかし》の人《ひと》がその肉《にく》を食《く》つてすてたものか、どうかゞ疑問《ぎもん》とせられたのでありましたが、ある學者《がくしや》が綿密《めんみつ》に調査《ちようさ》した結果《けつか》、すてゝあるそれらの貝殼《かひがら》は、みな成熟《せいじゆく》した貝《かひ》ばかりで、未成熟《みせいじゆく》のものがなく、また二枚貝《にまいがひ》の一方《いつぽう》だけのものが多《おほ》いことなどがわかりました。もしも自然《しぜん》に貝殼《かひがら》がつもつたものとすれば、そのうちには、きっと食《た》べられない幼《をさ》ない貝《かひ》も交《まじ》つてゐなければならないはずだのに、大《おほ》きい熟《じゆく》した貝《かひ》ばかりであり、また貝殼《かひがら》の一方《いつぽう》しかないといふことは、自然《しぜん》にたまつたものでなく、昔《むかし》の人《ひと》が食《く》つて殼《から》をすてたものであるといふほかはないのです。なほこの貝塚《かひづか》は、ヨーロッパの海岸地方《かいがんちほう》ばかりでなく、アメリカその他《た》世界各國《せかいかつこく》にあります。日本《につぽん》にも多《おほ》くありますが、日本《につぽん》の貝塚《かひづか》については、後《のち》にお話《はな》しいたしませう。
[#「第二十七圖 現代水上住居」のキャプション付きの図(fig18371_28.png)入る]
 新石器時代《しんせつきじだい》の人間《にんげん》は、またあるところでは湖水《こすい》の中《なか》に棒杙《ぼうぐひ》を打《う》つてその上《うへ》に小屋《こや》を設《まう》けて棲《す》んでゐました。そしてその小屋《こや》が多《おほ》く集《あつ》まつて一《ひと》つの村落《そんらく》をつくつてゐました。これを湖上住居《こじようじゆうきよ》、あるひは杙上住居《くひじようじゆうきよ》と申《まを》します。イタリイの北部《ほくぶ》やスヰスあたりに多《おほ》くこの遺跡《いせき》があります。それはちょうど今日《こんにち》ボルネオのパプア人《じん》やシンガポールあたりの海岸《かいがん》で見《み》かけるのと同樣《どうよう》、陸地《りくち》との交通《こうつう》はたいてい小舟《こぶね》に乘《の》つたものです。(第二十七圖《だいにじゆうしちず》)なぜこんな所《ところ》に住《す》むのでせうか。それには種々《しゆ/″\》の理由《りゆう》があるでせうが、その一《ひと》つは敵《てき》の襲撃《しゆうげき》を免《のが》れ、猛獸《もうじゆう》の害《がい》を避《さ》けるためであつたでせう。また陸上《りくじよう》の家《いへ》に住《す》んで、穢《きたな》い塵埃《じんあい》をあたりにすてると不潔《ふけつ》なばかりでなく、いろ/\の病氣《びようき》に罹《かゝ》ることを實驗《じつけん》して、不潔物《ふけつぶつ》を水《みづ》にすて清潔《せいけつ》な生活《せいかつ》をするといふ意味《いみ》もあつたかと思《おも》はれます。もちろんこの小屋《こや》は燒《や》けたり壞《こわ》れたりして、今日《こんにち》まったく殘《のこ》つてをりませんが、その土臺《どだい》の杙《くひ》だけが水《みづ》の中《なか》に遺《のこ》つてゐるのです。今《いま》から數十年前《すうじゆうねんぜん》のある年《とし》、スヰスの國《くに》のチュウリッヒ湖《こ》の水《みづ》が今《いま》までになく減《へ》つて底《そこ》が現《あらは》れました。その底《そこ》に棒杙《ぼうぐひ》が一萬本《いちまんぼん》もにょき/\と立《た》つてゐるのをケラーといふ學者《がくしや》が發見《はつけん》しまして、だん/″\研究《けんきゆう》した結果《けつか》、これが昔《むかし》の人《ひと》の湖上住居《こじようじゆうきよ》の跡《あと》であることがわかりました。その證據《しようこ》にはその杙《くひ》のある附近《ふきん》を掘《ほ》つて見《み》ますと、當時《とうじ》の人間《にんげん》が落《おと》したり捨《す》てたりした石器《せつき》や土器《どき》までが發見《はつけん》され、織《お》り物《もの》や木《こ》の實《み》の類《るい》までが、よく殘《のこ》つてをりました。湖上住居《こじようじゆうきよ》は、しかし新石器時代《しんせつきじだい》ばかりでなく、次《つ》ぎの青銅器時代《せいどうきじだい》までも引《ひ》きつゞいて行《おこな》はれてゐたことは、湖水《こすい》の一番《いちばん》深《ふか》い底《そこ》からは石器《せつき》が發見《はつけん》され、淺《あさ》い上《うへ》の方《ほう》からは青銅器《せいどうき》が發見《はつけん》されたことによつて知《し》ることが出來《でき》ます。
[#「第二十八圖 ヨーロツパ古代湖上住居想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_29.png)入る]
 あすこの壁《かべ》に懸《か》けてある繪《え》をご覽《らん》なさい。遺《のこ》つてゐた土臺《どだい》の杙《くひ》から想像《そう/″\》して湖上住居《こじようじゆうきよ》の小屋《こや》を描《か》いたものであります。(第二十八圖《だいにじゆうはちず》)その隣《とな》りにある繪《え》は、現在《げんざい》南洋《なんよう》において實行《じつこう》してゐる水上住居《すいじようじゆうきよ》でありますが、いかにもよく似《に》てゐることがわかりませう。(第二十七圖《だいにじゆうしちず》)なほイタリイの北《きた》の方《ほう》などでは、水《みづ》はなくても低《ひく》い濕《しめ》つぽい所《ところ》に、湖上住居《こじようじゆうきよ》と同《おな》じような杙《くひ》をたて、その上《うへ》に小屋《こや》を作《つく》つて住《す》んでゐた人間《にんげん》が、新石器時代《しんせつきじだい》から青銅時代《せいどうじだい》にかけてをりました。

      (ロ) 磨製石器《ませいせつき》と土器《どき》

 さて新石器時代《しんせつきじだい》の人類《じんるい》はどういふふうな生活《せいかつ》をしてゐたかといひますと、やはり舊石器時代《きゆうせつきじだい》の人間《にんげん》と同《おな》じように、石《いし》を割《わ》つたり、叩《たゝ》いたりして製作《せいさく》した極《きは》めて粗末《そまつ》な器物《きぶつ》をも使《つか》つてゐたのでありますが、それ以外《いがい》にこの時代《じだい》には石《いし》を磨《みが》いてすべ/\した美《うつく》しいものに造《つく》り上《あ》げることをやり出《だ》したのです。また石器《せつき》の形《かたち》も大體《だいたい》は前《まへ》の時代《じだい》よりは小形《こがた》のものが多《おほ》く、しかも石器《せつき》の使《つか》ひ途《みち》によつて種々《しゆ/″\》異《こと》なつた形《かたち》のものがわかれて發達《はつたつ》して來《き》ました。例《たと》へば平《ひら》たく刃《は》が兩方《りようほう》から磨《みが》き出《だ》してゐる石斧《せきふ》、あるひは長《なが》い槍《やり》、あるひは庖丁《ほうちよう》といつたふうに、使用《しよう》に便利《べんり》な種々《しゆ/″\》の形《かたち》が出來《でき》たのであります。そしてそれらが皆《みな》、その後《ご》發達《はつたつ》して今日《こんにち》の金屬《きんぞく》の器物《きぶつ》になつて行《い》つたのです。またこの時代《じだい》の一番《いちばん》大《おほ》きな發明《はつめい》は、弓矢《ゆみや》が始《はじ》めて用《もち》ひられることであります。それは矢《や》の先《さき》につける矢《や》の根《ね》石《いし》があることでわかるのであります。投《な》げ槍《やり》といふようなものは、あるひはありましたかも知《し》れませんが、弓矢《ゆみや》のような飛《と》び道具《どうぐ》は、舊石器時代《きゆうせつきじだい》には見《み》られないもので、實《じつ》に新石器時代《しんせつきじだい》の新式武器《しんしきぶき》であります。この發見《はつけん》はちょうど近代《きんだい》における鐵砲《てつぽう》の發明《はつめい》と同樣《どうよう》、當時《とうじ》の人間《にんげん》が狩獵《しゆりよう》や戰爭《せんそう》の場合《ばあひ》、どれほど便利《べんり》で、またどれほど有效《ゆうこう》であつたかといふことは、今《いま》から想像《そう/″\》されます。たゞ今《いま》述《の》べたところの石器《せつき》は、この棚《たな》に陳列《ちんれつ》してあるように、世界《せかい》の各國《かつこく》から出《で》てゐるのでありますが、その形《かたち》はたいてい皆《みな》よく似《に》たもので、大《たい》した相違《そうい》はありません。(第二十九圖《だいにじゆうくず》)
[#「第二十九圖 ヨーロ
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