ことを知《し》らなかつたといふにすぎないのです。この彫刻《ちようこく》を造《つく》つた人間《にんげん》は、前《まへ》に説明《せつめい》した古《ふる》い人間《にんげん》の模型中《もけいちゆう》にあつた『クロマニヨン』人《じん》に屬《ぞく》するのであります。『クロマニヨン』人《じん》は、頭腦《ずのう》も大《おほ》きく恰好《かつこう》も整《とゝの》うてをり、けっして野蠻人《やばんじん》といふことの出來《でき》ない體格《たいかく》の持《も》ち主《ぬし》でありますからこそ、かようなものが造《つく》り得《え》られたのです。更《さら》に『クロマニヨン』人《じん》は、彫刻《ちようこく》をしたばかりでなく、大《おほ》きな繪《え》も描《か》いたのです。その繪《え》は今日《こんにち》まで遺《のこ》つてをりますが、あちらの壁《かべ》を御覽《ごらん》なさい。(第二十四圖《だいにじゆうしず》)壁《かべ》に懸《かゝ》つてゐる牛《うし》、馬《うま》、鹿《しか》などの繪《え》はかれ等《ら》が洞穴《ほらあな》の中《なか》の石壁《いしかべ》に彫《ほ》りつけたり、また描《か》いたりした繪《え》の寫《うつ》しであります。かの牛《うし》はびぞん[#「びぞん」に傍点]といふ牛《うし》で、今日《こんにち》の牛《うし》とはその形《かたち》は異《こと》なつてゐますけれども、鹿《しか》や馬《うま》の形《かたち》はなんとよく似《に》て本物《ほんもの》のようでありませんか。筆致《ひつち》の確《たし》かな點《てん》、全體《ぜんたい》が生《い》き/\してゐるところ、實《じつ》にこれがそんな古《ふる》い一萬年前《いちまんねんぜん》にも近《ちか》い時代《じだい》に出來《でき》たものであらうかと、誰《たれ》も疑《うたが》ふのもむりはありません。實際《じつさい》のところこれが今《いま》から五十年《ごじゆうねん》ほど前《まへ》に、初《はじ》めてスペインの北《きた》の海岸《かいがん》アルタミラといふ田舍《ゐなか》の丘《をか》の上《うへ》の洞穴《ほらあな》で發見《はつけん》された時《とき》、たいていの學者《がくしや》は皆《みな》、これが一萬年《いちまんねん》もへた古《ふる》いものでなく、ずうっと新《あたら》しいものだといつて誰《たれ》も信《しん》じなかつたほどです。しかしその洞穴《ほらあな》をよく調《しら》べると、けっして新《あたら》しい時代《じだい》に人《ひと》がはひつて作《つく》つたものではなく、びぞん[#「びぞん」に傍点]といふ牛《うし》のような動物《どうぶつ》は、一萬年《いちまんねん》近《ちか》くも前《まへ》でなければ棲息《せいそく》してゐなかつたものであり、それをこれほど寫生的《しやせいてき》に描《か》くには、實物《じつぶつ》によつて寫生《しやせい》したのでなければならぬといふことなどが、だん/\わかつて來《き》たのみでなく、やがてはフランスの中部《ちゆうぶ》ドルドーンヌのフオン・ド・ゴームといふ所《ところ》の洞穴《ほらあな》などにまた、同《おな》じような繪《え》のあることが發見《はつけん》せられたのです。それで今日《こんにち》では誰《たれ》もこれを疑《うたが》ふものはなくなつたのであります。
[#「第二十五圖 舊石器時代の人が洞穴に畫をかいてゐる圖」のキャプション付きの図(fig18371_26.png)入る]
私《わたし》もこの間《あひだ》、スペインのアルタミラ[#「アルタミラ」は底本では「アルタミナ」]の洞穴《ほらあな》へ行《い》つて親《した》しくその繪《え》を見《み》ることが出來《でき》たのでありますが、それはのろ/\とした丘《をか》の頂《いたゞ》きに近《ちか》く小《ちひ》さな口《くち》を開《ひら》いた穴《あな》であつて、中《なか》にはひると十數疊敷《じゆうすうじようじ》きぐらゐの大《おほ》きさの室《しつ》があつて、その奧《おく》へ進《すゝ》むと二三十間《にさんじつけん》ほどもはひつて行《ゆ》かれます。今《いま》の動物《どうぶつ》の繪《え》はその大《おほ》きい室《しつ》の天井《てんじよう》に描《か》いてあつたが、石《いし》の凹凸《おうとつ》を巧《たく》みに利用《りよう》して突出部《とつしゆつぶ》を動物《どうぶつ》の腹部《ふくぶ》とし、黒《くろ》と褐色《かつしよく》の彩色《さいしき》をもつて描《か》いてあつて、それがあり/\と殘《のこ》つてをります。一萬年前《いちまんねんぜん》より今日《こんにち》までこのようによく保存《ほぞん》されたとは思《おも》へないくらゐであります。また近年《きんねん》この洞穴《ほらあな》を發掘《はつくつ》して、昔《むかし》彩色《さいしき》に使《つか》つた繪具《えのぐ》も發見《はつけん》せられたので、それらは洞穴《ほらあな》の傍《そば》にある番人小屋《ばんにんごや》にある小《ちひ》さな陳列室《ちんれつしつ》に竝《なら》べてありました。昔《むかし》の人《ひと》は暗《くら》い室《しつ》の内《なか》でどうしてこんな繪《え》を描《か》いたのでせうか。おそらく燈火《とうか》を用《もち》ひたとすれば動物《どうぶつ》の脂肪《あぶら》をとぼしたことゝ思《おも》はれます。この洞穴《ほらあな》の繪《え》を發見《はつけん》したのに面白《おもしろ》い話《はなし》があります。發見者《はつけんしや》は偉《えら》い學者《がくしや》でも大人《おとな》でもなく、一人《ひとり》の小《ちひ》さい娘《むすめ》さんであつたのです。今《いま》から五十年程前《ごじゆうねんほどまへ》ん[#「ん」はママ](一八七九|年《ねん》)に、この附近《ふきん》にサウツオラといふ人《ひと》が住《す》んでゐました。その人《ひと》は古《ふる》い穴《あな》を調《しら》べることに興味《きようみ》をもち、ある日《ひ》七八歳《しちはつさい》の女《をんな》の子《こ》を伴《つ》れてこの洞穴《ほらあな》の中《なか》へはひつたのです。穴《あな》の入《い》り口《ぐち》は、今《いま》より狹《せま》くやう/\四《よつ》ん這《ば》ひになつて中《なか》にはひつて行《ゆ》くと、女《をんな》の子《こ》が、
「お父《とう》さん、あそこに牛《うし》が描《か》いてあります」
と叫《さけ》んだので、
「なに、そんなことがあるものか」
と打《う》ち消《け》しながらよく見《み》ると、牛《うし》や馬《うま》の繪《え》が續々《ぞく/\》と七八十程《しちはちじゆうほど》も現《あらは》れて來《き》たので、サウツオラは驚《おどろ》きました。そしてそれが原因《げんいん》で洞穴《ほらあな》の研究《けんきゆう》をして、これを學界《がつかい》に發表《はつぴよう》しましたが、當時《とうじ》誰《たれ》も信《しん》ずる者《もの》がなく、サウツオラは失望落膽《しつぼうらくたん》し、殘念《ざんねん》に思《おも》ひながら死《し》んだのです。死後《しご》幾年《いくねん》かをへて、それが始《はじ》めて舊石器時代《きゆうせつきじだい》の繪《え》であることにきまり、今更《いまさら》サウツオラの手柄《てがら》を人々《ひと/″\》が認《みと》めるようになりました。今《いま》もその洞穴《ほらあな》の人《いり》り口《ぐち》に建《た》つてゐる碑文《ひぶん》にそのことが記《しる》されてあります。また當時《とうじ》の少女《しようじよ》はまだ生《い》きてゐて、そこからあまり遠《とほ》くない村《むら》に住《す》んでゐるといふことを番人《ばんにん》の女《をんな》から聞《き》きましたが、定《さだ》めしもう年《とし》よりのお婆《ばあ》さんになつて當時《とうじ》自分《じぶん》くらゐの娘《むすめ》の子《こ》の親《おや》となつてゐることであらうと思《おも》ひます。
アルタミラの洞穴《ほらあな》の繪《え》とごく似《に》てゐる繪《え》は、前《まへ》にいつたフランスのフオン・ド・ゴームの繪《え》であります。この洞穴《ほらあな》は、アルタミラとは違《ちが》つて、丈《たけ》の高《たか》い奧《おく》の深《ふか》い穴《あな》であつて、兩側《りようがは》の壁《かべ》にやはり多數《たすう》の動物《どうぶつ》の繪《え》を描《か》いてあります。こゝへも私《わたし》は行《ゆ》きましたが、繪《え》の出來《でき》は前《まへ》のものより、少《すこ》し劣《おと》るようでありますが、大體《だいたい》において同《おな》じ調子《ちようし》であります。その他《ほか》フランスの洞穴《ほらあな》には、これとよく似《に》た繪《え》や、少《すこ》し趣《おもむき》を異《こと》にする繪《え》が、無數《むすう》にありますが、一風《いつぷう》變《かは》つた描《か》き方《かた》で舊石器時代《きゆうせつきじだい》の繪《え》と認《みと》められるものは、東《ひがし》スペインの洞穴《ほらあな》などに遺《のこ》つてゐる繪《え》であります。みな妙《みよう》な恰好《かつこう》をした人間《にんげん》の繪《え》で、それは今日《こんにち》南《みなみ》アフリカの土人《どじん》ブッシュマンなどが描《か》く繪《え》と非常《ひじよう》に似《に》てゐるのです。
さて私《わたし》たちは次《つ》ぎの室《しつ》にはひる前《まへ》に、ちょっと見落《みおと》した石器類《せつきるい》を一應《いちおう》見《み》ることにいたしませう。そこにあるのは舊石器時代《きゆうせつきじだい》の最後《さいご》の頃《ころ》であるオリニヤック期《き》のもので、その次《つ》ぎに來《く》るのが、舊石器時代《きゆうせつきじだい》から新石器時代《しんせつきじだい》に移《うつ》つて行《ゆ》く中間《ちゆうかん》のアジール期《き》のものです。石器《せつき》の造《つく》り方《かた》などは別《べつ》に進歩《しんぽ》してゐませんけれども、それにもあるように文字《もじ》のようなものを、石《いし》に朱《しゆ》で書《か》いたものがあるのは珍《めづら》しいと思《おも》ひます。(第二十二圖《だいにじゆうにず》左下《ひだりした》)
[#改ページ]
三、新石器時代室《しんせつきじだいしつ》
(イ) 貝塚《かひづか》と湖上住居《こじようじゆうきよ》
舊石器時代《きゆうせつきじだい》と新石器時代《しんせつきじだい》とは、人種上《じんしゆじよう》にも文化上《ぶんかじよう》にも關係《かんけい》がなくて、かけ離《はな》れた別《べつ》のものであるといふふうに、今《いま》までの人《ひと》は多《おほ》く思《おも》つてゐましたが、近頃《ちかごろ》は、この舊新兩石器時代《きゆうしんりようせつきじだい》の間《あひだ》には聯絡《れんらく》があつて、けっして無關係《むかんけい》のものとすることが出來《でき》ないといふふうに、だん/″\考《かんが》へられて來《き》たのであります。そしてまた學者《がくしや》の中《なか》には、この二《ふた》つの時代《じだい》の間《あひだ》に、中石器時代《ちゆうせつきじだい》といふ中間《ちゆうかん》のものを置《お》く人《ひと》もあります。それはとにかく、新石器時代《しんせつきじだい》は舊石器時代《きゆうせつきじだい》と比《くら》べて、人種《じんしゆ》の上《うへ》にも文化《ぶんか》の上《うへ》にも餘程《よほど》違《ちが》つたものがあり、この時代《じだい》になると、人種《じんしゆ》はもちろん現在《げんざい》の世界《せかい》の人種《じんしゆ》とまったく同《おな》じ種《しゆ》に屬《ぞく》してゐるし、その他《ほか》自然界《しぜんかい》の状態《じようたい》も非常《ひじよう》に今日《こんにち》と接近《せつきん》して來《き》ました。それで石器《せつき》を使用《しよう》したといふ點《てん》においては舊石器時代《きゆうせつきじだい》と變《かは》りはありませんが、その人種上《じんしゆじよう》からも、また一般文化《いつぱんぶんか》の上《うへ》から見《み》ますと、かへって後《のち》の青銅器時代《せいどうきじだい》と深《ふか》い關係《かんけい》があるのであります。また新石器時代《しんせつきじだい》のつゞいた年代《ねんだい》は舊石器時代《きゆうせつきじだい》に比《く
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