が木《こ》の間《ま》がくれに建《た》つてゐるかと思《おも》ふと、面白《おもしろ》い風車《かざぐるま》があり、倉庫《そうこ》のような古《ふる》い建《た》て物《もの》が昔《むかし》のまゝに設《まう》けてあるといふ風《ふう》であります。さてその農民小屋《のうみんごや》にはひつて見《み》ると爐邊《ろへん》には薪《まき》が燃《も》やされてあつて、その地方《ちほう》の風俗《ふうぞく》をした爺《ぢい》さんがたばこ[#「たばこ」に傍点]を燻《いぶ》らしてゐたり、娘《むすめ》さんはまた絲《いと》を紡《つむ》いで熱心《ねつしん》に働《はたら》いてゐるといふ實際生活《じつさいせいかつ》を見《み》ることが出來《でき》、また料理屋《りようりや》や茶店《ちやみせ》も各地方《かくちほう》にあるそのまゝの建築《けんちく》で、料理《りようり》もまたその地方《ちほう》の名物《めいぶつ》を食《く》はせ、給仕女《きゆうじをんな》は故郷《こきよう》の風俗《ふうぞく》をしてお客《きやく》の給仕《きゆうじ》に出《で》るといふふうになつてゐます。
[#「第十二圖 スカンセン野外博物館の一部」のキャプション付きの図(fig18371_13.png)入る]
 これは單《たん》に旅人《たびゞと》を面白《おもしろ》く思《おも》はせるために設《まう》けられたものではなくて、だん/\文明《ぶんめい》に進《すゝ》むに從《したが》ひ、昔《むかし》の良《よ》い風俗《ふうぞく》や面白《おもしろ》い建築物《けんちくぶつ》が次第《しだい》に滅《ほろ》んで行《ゆ》くのを保存《ほぞん》するために出來《でき》たものであります。私《わたし》は日本《につぽん》においても、文化《ぶんか》の進《すゝ》むに從《したが》つて、田舍《ゐなか》にある古《ふる》い風俗《ふうぞく》や道具類《どうぐるい》が、次第《しだい》に滅《ほろ》び行《ゆ》くことを殘念《ざんねん》に思《おも》ふので、一日《いちにち》も早《はや》くかういふふうな民俗博物館《みんぞくはくぶつかん》が設《まう》けられることを希望《きぼう》するものであります。そして、このスエーデンの博物館《はくぶつかん》を造《つく》つた人《ひと》は、最初《さいしよ》から多《おほ》くの金錢《きんせん》を投《とう》じて着手《ちやくしゆ》したのではなく、少《すこ》しづゝ集《あつ》めて長《なが》い年月《としつき》の間《あひだ》に一人《ひとり》の力《ちから》でもつて完成《かんせい》させたことを思《おも》ふときは、誰《たれ》でも熱心《ねつしん》と時間《じかん》とをもつてやりだせば、成《な》しあげることが出來《でき》ることゝ信《しん》じます。このスエーデンの北方博物館《ほつぽうはくぶつかん》とまつたく同《おな》じような博物館《はくぶつかん》が更《さら》に北《きた》の國《くに》、ノールウエのオスロにもありますし、近頃《ちかごろ》この種《しゆ》の博物館《はくぶつかん》は各國《かつこく》に設《まう》けられて來《く》る傾向《けいこう》になつてをります。
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第二、考古博物館の卷(上)
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     一、考古學《こうこがく》とはどういふ學問《がくもん》ですか

      (イ) 考古學《こうこがく》と考古博物館《こうこはくぶつかん》

 博物館《はくぶつかん》を大別《たいべつ》すると、美術《びじゆつ》、歴史《れきし》、考古《こうこ》に關《かん》する品物《しなもの》を陳列《ちんれつ》した博物館《はくぶつかん》と、博物《はくぶつ》、理科《りか》の方面《ほうめん》の品物《しなもの》を集《あつ》めた科學博物館《かがくはくぶつかん》の二《ふた》つの種類《しゆるい》に區別《くべつ》せられることは前《まへ》にも述《の》べたとほりでありますが、これらの博物館《はくぶつかん》について一々《いち/\》詳《くは》しくお話《はな》しをすることは、この本《ほん》の紙面《しめん》が許《ゆる》さないばかりでなく、科學博物館《かがくはくぶつかん》や、美術《びじゆつ》、歴史《れきし》の博物館《はくぶつかん》に關《かん》しては、各々《おの/\》その題目《だいもく》について他《ほか》の先生方《せんせいがた》が話《はな》されることになつてをりますから、私《わたし》は第一《だいゝち》の美術《びじゆつ》、歴史《れきし》、考古《こうこ》に關《かん》する博物館《はくぶつかん》の内《うち》、たゞ考古學《こうこがく》に關《かん》する博物館《はくぶつかん》のお話《はな》しをこれからいたしませう。
 いつたい考古學《こうこがく》といふ學問《がくもん》は、人間《にんげん》が世界《せかい》に現《あらは》れて以來《いらい》今日《こんにち》に至《いた》るまでの長《なが》い年月《としつき》の間《あひだ》にこの世界中《せかいじゆう》に遺《のこ》した種々《しゆ/″\》の品物《しなもの》、それは人間《にんげん》の作《つく》つた道具《どうぐ》とか武器《ぶき》の類《るい》、また建築《けんちく》、彫刻《ちようこく》、繪畫《かいが》その他《た》一切《いつさい》の品物《しなもの》、これを私共《わたしども》は遺物《いぶつ》といつてをりますが、その遺物《いぶつ》によつて人間《にんげん》の過去《かこ》の時代《じだい》の生活《せいかつ》の模樣《もよう》だとか、文化《ぶんか》の状態《じようたい》だとかを研究《けんきゆう》する學問《がくもん》であります。しかし新《あたら》しい時代《じだい》になるほど種々《しゆ/″\》の書《か》き物《もの》などが遺《のこ》つてをりますので、それによつて昔《むかし》のことがたいていわかりますから、遺物《いぶつ》ばかりで調《しら》べる必要《ひつよう》はありませんが、ずっと時代《じだい》が古《ふる》くなり、書《か》き物《もの》があまりなかつたり、またまったくない古《ふる》い時代《じだい》になりますと、どうしても遺物《いぶつ》ばかりで研究《けんきゆう》をするほか方法《ほう/\》はありません。それで考古學《こうこがく》では、遺物《いぶつ》ばかりで研究《けんきゆう》しなければならぬごく古《ふる》い時代《じだい》、あるひは遺物《いぶつ》を主《おも》に使《つか》つて研究《けんきゆう》しなければならぬ古《ふる》い時代《じだい》のことを專《もつぱ》ら調《しら》べて行《ゆ》くのであります。ですから考古學《こうこがく》の博物館《はくぶつかん》といへば、遠《とほ》い古《ふる》い時代《じだい》に人間《にんげん》の造《つく》つた品物《しなもの》を竝《なら》べて置《お》くのでありますが、大《おほ》きい家屋《かおく》だとか洞窟《どうくつ》だとかいふものになりますと、博物館《はくぶつかん》の中《なか》へ持《も》つて來《く》ることが困難《こんなん》ですから、たいていは模型《もけい》や圖面《ずめん》を陳列《ちんれつ》することになつてをります。
 私《わたし》は七八歳《しちはつさい》の少年時代《しようねんじだい》から、昔《むかし》の人《ひと》の作《つく》つた石《いし》の矢《や》の根《ね》などを集《あつ》めて喜《よろこ》んだのでありましたが、その頃《ころ》私《わたし》は石《いし》の矢《や》の根《ね》は人間《にんげん》の作《つく》つたものではなくて、水晶《すいしよう》や何《なに》かと同《おな》じように自然《しぜん》に出來《でき》た石《いし》だとばかり信《しん》じてをりました。またある人《ひと》は石《いし》の矢《や》の根《ね》は天狗《てんぐ》の作《つく》つたものだと話《はな》してくれました。しかしそれは、今日《こんにち》から四十年程前《しじゆうねんほどまへ》のことでありまして、その頃《ころ》には日本《につぽん》のどこへ行《い》つても考古學《こうこがく》の博物館《はくぶつかん》といふものは一《ひと》つもなく、また石《いし》の矢《や》の根《ね》のようなものについても、説明《せつめい》した書物《しよもつ》がなかつたのであります。もしその頃《ころ》考古學《こうこがく》の博物館《はくぶつかん》があつたならば、石《いし》の矢《や》の根《ね》は自然《しぜん》に出來《でき》たものでもなく、また天狗《てんぐ》の作《つく》つたものでもなくて、古《ふる》い時代《じだい》に人間《にんげん》が作《つく》つたものであるといふことがわかつたことでありませう。しかし四十年後《しじゆうねんご》の今日《こんにち》でも、日本《につぽん》では殘念《ざんねん》ながら考古學博物館《こうこがくはくぶつかん》がどこにも設《まう》けられてゐませんから、皆《みな》さんはやはり先生《せんせい》に聽《き》くか、書物《しよもつ》を見《み》るかしなければ、それらについて知《し》ることの出來《でき》ないのは甚《はなは》だ遺憾《いかん》なことであります。
 昨年《さくねん》私《わたし》がドイツを旅行《りよこう》して、ミュンヘンといふ町《まち》へまゐりました時《とき》、そこにある大《おほ》きい美術博物館《びじゆつはくぶつかん》の附近《ふきん》に、小《ちひ》さいけれども考古學博物館《こうこがくはくぶつかん》がありましたので見物《けんぶつ》に出《で》かけました。そこはわづか二《ふた》つか三《みつ》つしか部屋《へや》がなく、ほんとうに小《ちひ》さいもので、爺《ぢい》さんがたゞ一人《ひとり》、つくねんとして番《ばん》をしてゐました。その中《なか》へ私《わたし》がはひつて行《ゆ》くと、陳列棚《ちんれつだな》の陰《かげ》の方《ほう》に一人《ひとり》の少年《しようねん》がゐて、手帳《てちよう》を出《だ》して一《いつ》しょう懸命《けんめい》に見《み》たものについて筆記《ひつき》してゐました。私《わたし》はこの少年《しようねん》の熱心《ねつしん》さに感心《かんしん》したので、
「あなたはかういふ古《ふる》いものがすきですか」
とたづねました。
「はい、私《わたし》はこんなものを調《しら》べるのが一番《いちばん》好《す》きです」
と答《こた》へて、なほも鉛筆《えんぴつ》を手帳《てちよう》の上《うへ》に走《はし》らせてゐるのです。それで私《わたし》は、
「あなたのような熱心《ねつしん》な少年《しようねん》は、將來《しようらい》きっと考古學《こうこがく》の立派《りつぱ》な學者《がくしや》になりませう」
といつて別《わか》れたのでありました。日本《につぽん》にもよし小《ちひ》さくとも、こゝかしこに考古學《こうこがく》の博物館《はくぶつかん》が建《た》てられてあつたら、このドイツの少年《しようねん》のように熱心《ねつしん》な子供《こども》が出來《でき》て來《き》て、それが將來《しようらい》考古學《こうこがく》の偉《えら》い學者《がくしや》になるであらうと感《かん》じたのでありました。

      (ロ) 人類《じんるい》の始《はじ》め

[#「第十三圖 ピテカントロプスの頭蓋」のキャプション付きの図(fig18371_14.png)入る]
 さて人間《にんげん》は下等動物《かとうどうぶつ》からだん/″\進化《しんか》して來《き》たものであつて、われ/\は猿《さる》と同《おな》じ祖先《そせん》から生《うま》れて來《き》たものであらうといふことは、ダアウヰンが進化論《しんかろん》を唱《とな》へて以來《いらい》、餘程《よほど》の頑固《がんこ》な人《ひと》を除《のぞ》いてたいてい皆《みな》信《しん》ずることになりました。しかし、その人間《にんげん》と猿《さる》との共同祖先《きようどうそせん》はどういふものであつたでせうか。またその共同祖先《きようどうそせん》から今日《こんにち》の人間《にんげん》のようになつた最初《さいしよ》の人間《にんげん》はどういふものであつたでせうか。このようなことを知《し》るには、地中《ちちゆう》に埋《うづ》まつてゐるその古《ふる》い骨《ほね》の化石《かせき》を掘《ほ》り出《だ》し、それを材料《ざいりよう》として研究《けんきゆう》する外《ほか》はありませんが、さてさういふ猿《さる》と人間《にんげん》との中間《ちゆうかん》のものゝ骨《ほね》が今日
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