多少《たしよう》異《こと》なつたところがあり、民族《みんぞく》は同《おな》じでも、すでに違《ちが》つた國《くに》をつくつてゐたと考《かんが》へられます。
[#「第七十八圖 朝鮮慶州古墳群」のキャプション付きの図(fig18371_79.png)入る]
 さて、南朝鮮《みなみちようせん》には、あちらこちらに多數《たすう》の古墳《こふん》がありますが、中《なか》でも一番《いちばん》たくさん遺《のこ》つてゐるのは、元《もと》の新羅《しらぎ》の都《みやこ》慶州《けいしゆう》です。こゝは釜山《ふざん》から京城《けいじよう》へ行《ゆ》く汽車《きしや》に乘《の》つて、一時間《いちじかん》ばかりで大邱《たいきゆう》に着《つ》き、そこで下車《げしや》して自動車《じどうしや》で東《ひがし》の方《ほう》へ三四時間《さんよじかん》も走《はし》るとすぐ行《ゆ》かれる所《ところ》です。慶州《けいしゆう》には周圍《しゆうい》に低《ひく》い山《やま》があつて、一方《いつぽう》だけ少《すこ》し開《ひら》けてゐる地勢《ちせい》は、ちょうど内地《ないち》の奈良《なら》に似《に》て、まことに景色《けしき》のよいところであります。この町《まち》に着《つ》きますと、その低《ひく》い朝鮮《ちようせん》の家《いへ》が立《た》ち竝《なら》んでゐる間《あひだ》に、非常《ひじよう》に大《おほ》きい土饅頭《つちまんじゆう》がにょき/\と聳《そび》えてゐる景色《けしき》に誰《たれ》もが驚《おどろ》かされますが、これは皆《みな》、昔《むかし》の新羅《しらぎ》の王樣《おうさま》や偉《えら》い人《ひと》の古墳《こふん》なのです。その中《なか》でも一番《いちばん》立派《りつぱ》なのは、慶州《けいしゆう》の町《まち》の中《なか》にある鳳凰臺《ほうおうだい》といふので、これは高《たか》さ七十尺以上《しちじつしやくいじよう》もある大《おほ》きな圓塚《まるづか》です。この慶州《けいしゆう》の古墳《こふん》からは、今日《こんにち》までいろ/\のものが發見《はつけん》せられましたが、私共《わたしども》をびっくりさせたのは、ちょうど今《いま》から十年《じゆうねん》ばかり前《まへ》に、その鳳凰臺《ほうおうだい》の西手《にして》にある半崩《はんくづ》れの塚《つか》から出《で》た品物《しなもの》であります。私共《わたしども》は、その塚《つか》を金冠塚《きんかんづか》と名《な》づけましたが、そのわけは、この塚《つか》の中《なか》から、それは/\立派《りつぱ》な金《きん》の冠《かんむり》が出《で》たからであります。(この本《ほん》の口繪《くちえ》を御覽《ごらん》なさい)この冠《かんむり》はまったく純金作《じゆんきんづく》りでありまして、その五本《ごほん》の前立《まへた》てには小《ちひ》さな圓《まる》いぴら/\や、美《うつく》しい緑色《みどりいろ》の翡翆《ひすい》の小《ちひ》さい勾玉《まがたま》が七十《しちじゆう》ばかりもぶら下《さが》つてをりまして、これを頭《あたま》の上《うへ》に載《の》せてみると、それらがゆら/\と搖《ゆ》れて、なんともいへぬ美《うつく》しさを見《み》せます。そればかりではなく、冠《かんむり》の眞中《まんなか》からは鳥《とり》の羽根《はね》に似《に》た長《なが》い金《きん》の飾《かざ》りが後《うしろ》の方《ほう》に立《た》ち、また冠《かんむり》の兩側《りようがは》からも金《きん》の飾《かざ》りがぶら下《さが》つて、その端《はし》に勾玉《まがたま》がついてゐるといふ、すばらしい立派《りつぱ》な金《きん》の冠《かんむり》なのです。またこの冠《かんむり》を着《つ》けてゐた人《ひと》の腰《こし》のあたりには、金飾《きんかざ》りの美《うつく》しい帶《おび》がありまして、その帶《おび》から腰《こし》のまはりには、十七本《じゆうしちほん》の金《きん》で作《つく》つた下《さ》げ物《もの》をぶら下《さ》げてをり、その下《さ》げ物《もの》の先《さき》には、香入《こうい》れや魚《さかな》の形《かたち》の勾玉《まがたま》や毛拔《けぬ》きのような小道具《こどうぐ》がついてをります。そして、また腕《うで》には腕環《うでわ》、指《ゆび》には指環《ゆびわ》をつけ、足《あし》には金《きん》めっきした美《うつく》しい銅《どう》の靴《くつ》が添《そ》へてあるばかりでなく、この墓《はか》からは支那《しな》から渡《わた》つた銅器《どうき》、がらす器《き》の類《るい》をはじめ、馬具《ばぐ》、刀劍《とうけん》、土器《どき》などが無數《むすう》に出《で》たので、實《じつ》に見《み》る人《ひと》の眼《め》を驚《おどろ》かしたのでありました。私《わたし》もちょうどそれらが發見《はつけん》された時《とき》に、そこへ來合《きあは》せてゐてその立派《りつぱ》さに驚《おどろ》いた次第《しだい》であります。しかし私《わたし》は一度《いちど》この金《きん》の冠《かんむり》を頭《あたま》へのせて見《み》たことがありましたが、こんな冠《かんむり》やいろ/\の飾《かざ》りをつけてはその頃《ころ》の人《ひと》はさぞ重《おも》くて、きゅうくつなことであつたらうと思《おも》ひました。これは定《さだ》めし新羅《しらぎ》の古《ふる》い王樣《おうさま》のお墓《はか》でありませうが、その王樣《おうさま》の名《な》がわかりませんのは殘念《ざんねん》です。しかし大體《だいたい》日本《につぽん》の欽明天皇前後《きんめいてんのうぜんご》(今《いま》から千四百年《せんしひやくねん》ほど前《まへ》)の古墳《こふん》と思《おも》はれます。(第七十九圖《だいしちじゆうくず》)
[#「第七十九圖 慶州金冠塚發見品」のキャプション付きの図(fig18371_80png)入る]
 かような塚《つか》は、こればかりでなく、その後《ご》おひ/\と同《おな》じような金《きん》の冠《かんむり》を納《をさ》められたのがたくさん現《あらは》れました。あの鳳凰臺《ほうおうだい》の南《みなみ》の方《ほう》の小《ちひ》さい塚《つか》からも金冠《きんかん》が出《で》たのです。それは形《かたち》が小《ちひ》さく、また腰《こし》に下《さ》げた飾《かざ》り物《もの》も小《ちひ》さく可愛《かわい》らしいので、多分《たぶん》王樣《おうさま》の子供《こども》のお墓《はか》だらうと想像《そう/″\》されます。また金冠塚《きんかんづか》のすぐ西《にし》の塚《つか》を、今《いま》から二三年前《にさんねんぜん》、スヱーデンの皇太子殿下《こうたいしでんか》が御出《おい》でになつたとき[#「なつたとき」は底本では「なつとき」]掘《ほ》つてみました。これもまた金冠塚《きんかんづか》と同《おな》じような勾玉《まがたま》のついた金冠《きんかん》や金《きん》の飾《かざ》り物《もの》が出《で》ましたので、その品物《しなもの》をそのまゝ土《つち》の中《なか》に竝《なら》べて、殿下《でんか》に御覽《ごらん》に入《い》れましたが、朝日《あさひ》の光《ひか》りを受《う》けて金《きん》ぴかの品物《しなもの》が輝《かゞや》いてゐるありさまは、なんともいへぬ見物《みもの》でありました。『日本書紀《につぽんしよき》』の中《なか》にも、新羅《しらぎ》の國《くに》は金銀《きんぎん》のたくさんにある國《くに》であると書《か》ゐてありますがそれは確《たしか》にほんとうです。そしてこれほど金《きん》で作《つく》つた品物《しなもの》が墓《はか》にはひつてゐて出《で》た例《れい》は、日本《につぽん》にはまだ一《ひと》つもありません。しかし、それらのものは金《きん》で造《つく》つてありますけれども、その作《つく》り方《かた》はあまり精巧《せいこう》でなく美術的《びじゆつてき》といふよりも、たゞ無闇《むやみ》に金《きん》を使《つか》つた趣味《しゆみ》の低《ひく》い品物《しなもの》といふ外《ほか》はないのです。この慶州以外《けいしゆういがい》の古墳《こふん》から、これほど立派《りつぱ》な金《きん》づくめの品物《しなもの》は、今《いま》まで出《で》たことはありませんが、耳飾《みゝかざ》りだけはいつも金《きん》で作《つく》つてあります。冠《かんむり》や帶飾《おびかざ》りなどは同《おな》じ形《かたち》でも、銅《どう》に金《きん》めっき[#「めっき」に傍点]をしたものや、銀《ぎん》で作《つく》つたものが出《で》ただけです。餘《あま》りたくさんではありませんが、日本《につぽん》の古墳《こふん》からもこれと同《おな》じ類《るい》の冠《かんむり》や帶飾《おびかざ》りが、やはり出《で》るのであり、ことに土器《どき》はまったく祝部土器《いはひべどき》と同《おな》じ燒《や》き方《かた》のもので、これらはみな朝鮮《ちようせん》から日本《につぽん》へ傳《つた》へられたものでありますが、勾玉《まがたま》は果《はた》してどちらからどちらへ傳《つた》はつたものかわかりません。
[#「第八十圖 古代新羅人服飾想像圖」のキャプション付きの図(fig18371_81.png)入る]
 いま申《まを》した古墳《こふん》は皆《みな》圓塚《まるづか》でありまして、その中《なか》に漆《うるし》で塗《ぬ》つた棺《かん》を埋《うづ》め、その上《うへ》を大《おほ》きな石塊《いしころ》で包《つゝ》んだものであります。これを積《つ》み石《いし》塚《づか》といひます。新羅《しらぎ》の古《ふる》い墓《はか》は、かういふふうの造《つく》り方《かた》であつたのですが、その後《ご》石室《せきしつ》をつくることになり、ちょうど日本《につぽん》にあるのと同《おな》じような古墳《こふん》が朝鮮《ちようせん》にも出來《でき》たのであります。とにかく南朝鮮《みなみちようせん》の古墳《こふん》が日本《につぽん》の古墳《こふん》と非常《ひじよう》によく似《に》てゐることは、以上《いじよう》申《まを》したゞけでもおわかりでありませう。

      (ロ) 北朝鮮《きたちようせん》及《およ》び滿洲《まんしゆう》の古墳《こふん》

 朝鮮《ちようせん》の北《きた》の方《ほう》は、今《いま》から千九百年《せんくひやくねん》ほど前《まへ》滿洲《まんしゆう》の方《ほう》からかけて、漢《かん》の武帝《ぶてい》といふ強《つよ》い天子《てんし》が攻《せ》めて來《き》てそこを占領《せんりよう》し、樂浪郡《らくろうぐん》などゝいふ支那《しな》の郡《ぐん》を四《よつ》つも設《まう》けたところであります。ことに樂浪郡《らくろうぐん》の役所《やくしよ》のあつたところは、今日《こんにち》の平壤《へいじよう》の南《みなみ》、大同江《だいどうこう》の向《むか》う岸《ぎし》にあつて、古《ふる》い城壁《じようへき》のあともありますが、支那《しな》から派遣《はけん》せられた役人《やくにん》がこゝに留《とゞ》まつて朝鮮《ちようせん》を治《をさ》めてゐたのであります。それですからその附近《ふきん》には、その頃《ころ》の支那人《しなじん》の古墳《こふん》がたくさんあるのであります。これはみな小《ちひ》さい圓塚《まるづか》であつて、中《なか》には木《き》の棺《かん》を入《い》れたものやあるひは大《おほ》きな煉瓦《れんが》(甎《せん》といひます)で室《しつ》をつくつたものもありまして、その煉瓦《れんが》にはいろ/\模樣《もよう》があります。これらの墓《はか》を掘《ほ》りますと立派《りつぱ》な品物《しなもの》がたくさん出《で》ますが、それには前《まへ》に新羅《しらぎ》の墓《はか》で見《み》たような金《きん》ぴかものはありません。もっとじみ[#「じみ」に傍点]な銅《どう》や玉《ぎよく》でつくつた品物《しなもの》で、かへって美術的《びじゆつてき》にはなか/\優《すぐ》れたものが大《たい》そう多《おほ》いのです。新羅《しらぎ》の人《ひと》とこゝにゐた漢《かん》の人《ひと》との、趣味《しゆみ》の相違《そうい》がよくわかつて面白《おもしろ》いと思《おも》はれます。
 ある墓《はか》の中《なか》からは、木棺
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