内《もくかんない》の死體《したい》の胸《むね》のあたりに、圓《まる》い玉《ぎよく》で作《つく》つた璧《へき》といふものや、口《くち》の邊《へん》からは蝉《せみ》の形《かたち》をした玉《ぎよく》の飾《かざ》りなどが出《で》て來《き》ました。また玉《ぎよく》の飾《かざ》りをした劍《つるぎ》や鏡《かゞみ》、それから銅《どう》の壺《つぼ》なども出《で》ましたが、なかにも立派《りつぱ》なのは金《きん》の帶止《おびど》めです。この帶止《おびど》めは細《ほそ》い毛《け》のような金絲《きんし》と金《きん》の粒《つぶ》でもつて獅子《しゝ》の形《かたち》をつくり、それに寶石《ほうせき》をちりばめた細《こま》かい細工《さいく》は、今日《こんにち》でもたやすく出來《でき》ないと思《おも》はれるほど優《すぐ》れたものであります。またこれらの墓《はか》からたくさん漆器《しつき》の杯《さかづき》や盆《ぼん》、箱《はこ》などが出《で》ましたが、その漆器《しつき》には、これを作《つく》つた時《とき》の年號《ねんごう》や作《つく》つた人達《ひとたち》の名《な》が細《こま》かく彫《ほ》りつけてあります。それによりますと、漢《かん》の初《はじ》め頃《ごろ》支那《しな》の南方《なんぽう》蜀《しよく》といふ遠《とほ》い地方《ちほう》で、作《つく》つたものであることがわかるのであります。また漆器《しつき》の上《うへ》に美《うつく》しい繪《え》を描《か》いたものや、面白《おもしろ》い人物《じんぶつ》を描《か》いた鼈甲《べつこう》の小箱《こばこ》などがあり、支那《しな》の漢時代《かんじだい》には美術《びじゆつ》が進《すゝ》んでをつたことが、歴史《れきし》の本《ほん》に出《で》てをつても、まさか、これ程《ほど》まで發達《はつたつ》してをつたとは、今《いま》まで誰《たれ》も想像《そう/″\》が出來《でき》なかつたくらゐであります。なほ、ある墓《はか》からは漆器《しつき》でつくつた化粧箱《けしようばこ》が出《で》て、その箱《はこ》の中《なか》には紅《べに》と白粉《おしろい》を入《い》れた小《ちひ》さな蓋物《ふたもの》が入《い》れてありましたが、その頃《ころ》の人《ひと》も、かういふ道具《どうぐ》でお化粧《けしよう》をしたことがわかります。(第八十一圖《だいはちじゆういちず》)
[#「第八十一圖 朝鮮樂浪古墳發見品」のキャプション付きの図(fig18371_82.png)入る]
さてその後《ご》、北朝鮮《きたちようせん》には高句麗《こうくり》といふ朝鮮人《ちようせんじん》の國《くに》が建《た》てられて、支那人《しなじん》の勢力《せいりよく》がだん/\なくなつてしまひました。この高句麗時代《こうくりじだい》の古墳《こふん》は平壤《へいじよう》附近《ふきん》のほか朝鮮《ちようせん》の北《きた》、支那《しな》との國境《こつきよう》にもありまして、そこには將軍塚《しようぐんづか》などといふ名《な》のついてゐる、石《いし》で造《つく》つたエヂプトの階段《かいだん》ぴらみっと[#「ぴらみっと」に傍点][#「ぴらみっと」は底本では「ぴらっみと」]のような大《おほ》きな墓《はか》があります。これは高句麗《こうくり》の古《ふる》い頃《ころ》の好太王《こうたいおう》といふ王樣《おうさま》のお墓《はか》であるといふことであります。この墓《はか》の内部《ないぶ》には石《いし》で作《つく》つた部屋《へや》がありますが、古《ふる》くその中《なか》を荒《あら》したものがあつて今《いま》は何《なに》も殘《のこ》つてをりません。またこの墓《はか》から遠《とほ》くない所《ところ》にその王樣《おうさま》のことを記《しる》した自然石《しぜんせき》の大《おほ》きな碑《ひ》が立《た》つてをります。それを讀《よ》むと、日本人《につぽんじん》が朝鮮《ちようせん》へ攻《せ》めて行《い》つたことが記《しる》されてありますが、多分《たぶん》神功皇后《じんぐうこう/″\》の[#「神功皇后《じんぐうこう/″\》の」は底本では「神后皇后《じんぐうこう/″\》の」]三韓征伐《さんかんせいばつ》のときのことなどが書《か》いてあるように思《おも》はれます。この將軍塚《しようぐんづか》や碑《ひ》のあるところは鴨緑江《おうりよつこう》の北《きた》で、今日《こんにち》では支那《しな》の領地《りようち》となつてゐます。高句麗《こうくり》は、その後《ご》この北《きた》の方《ほう》から都《みやこ》を平壤《へいじよう》に移《うつ》しましたので、その後《ご》の古墳《こふん》は平壤《へいじよう》の西《にし》の方《ほう》にたくさんあります。それらの墓《はか》の中《なか》には大《おほ》きな石室《せきしつ》がありまして、室内《しつない》には實《じつ》に驚《おどろ》くほど立派《りつぱ》な繪《え》が描《か》いてあります。その繪《え》は優《すぐ》れた支那風《しなふう》の繪《え》でありまして、ちょうど支那《しな》の六朝頃《りくちようごろ》の畫風《がふう》を示《しめ》してをります。これは實《じつ》に日本《につぽん》の法隆寺《ほうりゆうじ》の金堂《こんどう》の繪畫《かいが》にも比《くら》ぶべき、立派《りつぱ》な古《ふる》い繪《え》の遺《のこ》りものであります。(第八十二圖《だいはちじゆうにず》)
[#「第八十二圖 朝鮮高句麗[#「朝鮮高句麗」は底本では「朝鮮高勾麗」]」のキャプション付きの図(fig18371_83.png)入る]
さて鴨緑江《おうりよつこう》をわたり北《きた》の方《ほう》へ行《ゆ》きますと、支那《しな》の領地《りようち》の南滿洲《みなみまんしゆう》でありますが、こゝは日清戰爭《につしんせんそう》、日露戰爭《にちろせんそう》などがあつて以來《いらい》、日本《につぽん》と縁《えん》の深《ふか》い土地《とち》であります。南滿洲《みなみまんしゆう》には、やはり石器時代頃《せつきじだいころ》からすでに人間《にんげん》が住《す》んでをりましたが、周《しゆう》の末《すゑ》から漢《かん》の初《はじ》めに支那人《しなじん》が盛《さか》んに植民《しよくみん》してゐたのです。そしてその頃《ころ》の古墳《こふん》があちらこちらに遺《のこ》つてゐますが、あの旅順《りよじゆん》の西《にし》にある老鐵山《ろうてつざん》の麓《ふもと》などには古《ふる》い城壁《じようへき》がありまして、そのあたりには古《ふる》い墓《はか》がたくさん散在《さんざい》してをります。その中《なか》には、煉瓦《れんが》で造《つく》つた五《いつ》つの室《しつ》のある漢時代《かんじだい》の墓《はか》がありました。それを今《いま》から二十年《にじゆうねん》ほど前《まへ》に、私《わたし》が掘《ほ》りにまゐりましたが、鏡《かゞみ》だとか土《つち》で作《つく》つた家《いへ》の形《かたち》だとかゞ出《で》て來《き》ました。この墓《はか》は、その後《ご》壞《こは》してしまつて、今《いま》では跡方《あとかた》も殘《のこ》つてをりません。また旅順《りよじゆん》の東《ひがし》、營城子《えいじようし》といふところにも、漢時代《かんじだい》の墓《はか》がありまして、平壤《へいじよう》附近《ふきん》の墓《はか》から出《で》るのと同《おな》じような漆器《しつき》などが出《で》ました。また北《きた》の方《ほう》遼陽《りようよう》の北《きた》には石《いし》で大《おほ》きな室《しつ》をつくつた古墳《こふん》があつて、その石室《せきしつ》に繪《え》を描《か》いたのがありましたが、今《いま》は旅順《りよじゆん》の博物館《はくぶつかん》に持《も》つて來《き》てありますから、容易《ようい》に見《み》ることが出來《でき》ます。そのほか南滿洲《みなみまんしゆう》の各地《かくち》には、小《ちひ》さな煉瓦造《れんがづく》りの墓《はか》や石棺《せきかん》がありますが、ことに珍《めづら》しいのは、貝殼《かひがら》でもつて四角《しかく》に取《と》り圍《かこ》み、その中《なか》に死體《したい》を收《をさ》めた墓《はか》であります。それを貝墓《かひはか》と呼《よ》んでをりますが、これは石器時代《せつきじだい》の貝塚《かひづか》とはまったく異《こと》なつたもので、中《なか》からは漢時代《かんじだい》の品物《しなもの》や、その頃《ころ》の古錢《こせん》が出《で》て來《き》ます。これらの古墳《こふん》やまたあちこちから出《で》る周《しゆう》の終《をは》り頃《ごろ》の品物《しなもの》や古錢《こせん》によつて、南滿洲《みなみまんしゆう》にも古《ふる》く周《しゆう》の終《をは》りから漢《かん》の頃《ころ》に支那《しな》の文明《ぶんめい》が傳《つた》はつてゐたことを知《し》ることが出來《でき》るばかりでなく、その頃《ころ》の人《ひと》は小《ちひ》さい舟《ふね》に乘《の》つて海岸傳《かいがんづた》ひにこの南滿洲《みなみまんしゆう》から北朝鮮《きたちようせん》の樂浪《らくろう》を經《へ》て、南朝鮮《みなみちようせん》にも支那《しな》の文明《ぶんめい》を傳《つた》へ、更《さら》に日本《につぽん》の西南《せいなん》へも來《き》たのでありまして、その結果《けつか》つひに朝鮮《ちようせん》も日本《につぽん》も、長《なが》い石器時代《せつきじだい》の夢《ゆめ》からさめて、金屬《きんぞく》を使用《しよう》する新《あたら》しい開《ひら》けた時代《じだい》へ、だん/\進《すゝ》んで行《い》つたものと思《おも》はれます。とにかく、この滿洲《まんしゆう》や朝鮮《ちようせん》にある支那人《しなじん》の古墳《こふん》は、餘《あま》り偉《えら》い人《ひと》のお墓《はか》ではありませんが、今日《こんにち》まだ支那《しな》の内地《ないち》の古墳《こふん》をよく調《しら》べることが出來《でき》ないので、支那《しな》のことを知《し》る上《うへ》からも非常《ひじよう》に大切《たいせつ》なものであります。
博物館《はくぶつかん》の見物《けんぶつ》も、だいぶ長《なが》くなつて皆《みな》さんも疲《つか》れたでせうが、私《わたし》も話《はな》しくたびれました。まづこれで見物《けんぶつ》をやめて、お茶《ちや》でも飮《の》むことにいたしませう。しかし皆《みな》さんはこん後《ご》も暇《ひま》があれば博物館《はくぶつかん》へ來《き》て、今《いま》まで見《み》た品物《しなもの》を更《さら》に詳《くは》しく見《み》て、わからぬことがあれば先生《せんせい》や博物館《はくぶつかん》の人《ひと》にお尋《たづ》ねになることを希望《きぼう》いたします。それではさようなら。[#地から1字上げ](をはり)
底本:「博物館」日本兒童文庫、アルス
1929(昭和4)年9月5日発行
※「つ」と「っ」、「よ」と「ょ」、「エ」と「ェ」と「ヱ」、挿と※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]、アッシリアとアッシリヤ、甲冑と甲胄の混用は底本の通りです。
※霜島正三郎と浜田青陵による挿絵の内、「青陵」もしくは「K.H.」(浜田の本名である、耕作に由来すると推定)とあるもの十三点を、著作権保護期間満了とみて収録しました。
入力:網迫、鈴木厚司
校正:しだひろし
2009年5月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全29ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜田 青陵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング