が出來《でき》た時分《じぶん》に、今《いま》まで私共《わたしども》の見《み》て來《き》た古墳《こふん》がなほつくられてをつたのであります。ところが支那《しな》のごく古《ふる》い古墳《こふん》には、墓《はか》の前《まへ》にお靈屋《たまや》のような建築《けんちく》があつたものもあり、それに使《つか》つた古《ふる》い瓦《かはら》などが發見《はつけん》せられるのでありますが、日本《につぽん》ではそんなものは一《いつ》こうありません。しかし、この日本《につぽん》のお寺《てら》の瓦《かはら》は、前《まへ》に申《まを》した祝部土器《いはひべどき》とほとんど同《おな》じ作《つく》り方《かた》の、堅《かた》い鼠色《ねずみいろ》の燒《や》き物《もの》であつて、それは前《まへ》に申《まを》したとほり、朝鮮《ちようせん》からその製法《せいほう》が傳《つた》へられたのでありました。この古《ふる》い瓦《かはら》が古《ふる》いお寺《てら》の境内《けいだい》や、古《ふる》いお寺《てら》のあつた場所《ばしよ》で今《いま》は畑《はたけ》となつてゐるところから、よく掘《ほ》り出《だ》されるのであります。それで皆《みな》さんも古墳《こふん》を見《み》に行《い》つたり、石器《せつき》を採集《さいしゆう》に出《で》かけたりするときには、さういふ古《ふる》い瓦《かはら》を拾《ひろ》ふこともありませうから、瓦《かはら》の話《はなし》を少《すこ》し知《し》つて置《お》くのも、まったく無用《むよう》ではありますまい。
あの支那《しな》では漢《かん》の時代《じだい》ごろには、圓瓦《まるがはら》の先《さき》に模樣《もよう》や文字《もじ》がつけてありました。瓦《かはら》のこの部分《ぶぶん》を瓦當《がとう》と呼《よ》んでゐます。中《なか》にはまたまんまるでなく半圓形《はんえんけい》のものもあります。しかし平瓦《ひらがはら》、後《のち》には唐草《からくさ》などが飾《かざ》りにつけてあるところでありますから、これを唐草瓦《からくさがはら》といひますが、その端《はし》にはたいてい模樣《もよう》がつけてありませんでした。日本《につぽん》の瓦《かはら》はちょうど支那《しな》の隋《ずい》といふ時代《じだい》に、朝鮮《ちようせん》から輸入《ゆにゆう》せられたものでありまして、圓瓦《まるがわら》の端《はし》には蓮華《れんげ》の模樣《もよう》を飾《かざ》りにつけてあり、唐草瓦《からくさがはら》にも蔓草《つるくさ》の模樣《もよう》などがつけてあります。その蓮華《れんげ》の模樣《もよう》も中央《ちゆうおう》の實《み》の方《ほう》が非常《ひじよう》に大《おほ》きい形《かたち》のものもあり、花瓣《かべん》の恰好《かつこう》も大《たい》そう美《うつく》しく、蔓草《つるくさ》の形《かたち》も非常《ひじよう》によく出來《でき》、その彫《ほ》りかたも強《つよ》く立派《りつぱ》であります。また瓦《かはら》は一體《いつたい》に大《たい》へん大《おほ》きく、今日《こんにち》の瓦《かはら》の二倍《にばい》くらゐもあります。またその竝《なら》べ方《かた》も今日《こんにち》とは少《すこ》し違《ちが》つてをりました。聖徳太子《しようとくたいし》の時代《じだい》(飛鳥時代《あすかじだい》といひます)に用《もち》ひられた、かういふ立派《りつぱ》な瓦《かはら》も、だん/\時代《じだい》をふるに從《したが》つて粗末《そまつ》となり、聖武天皇《しようむてんのう》の頃《ころ》(奈良時代《ならじだい》あるひは天平時代《てんぴようじだい》といふ)を過《す》ぎては、模樣《もよう》は拙《まづ》く意匠《いしよう》のまづいものになつてしまつたのは、不思議《ふしぎ》なことであります。それは、かような大《おほ》きい瓦《かはら》は屋根《やね》を葺《ふ》くには重《おも》すぎるので、後《のち》には輕《かる》い瓦《かはら》を作《つく》るようになつたことゝ、瓦師《かはらし》もなるだけ安《やす》いものをたくさんに造《つく》らうとしたので、惡《わる》いものが出來《でき》て來《き》たものでいたしかたがありません。私共《わたしども》はこの瓦《かはら》の形《かたち》と模樣《もよう》が、時代々々《じだい/\》に異《こと》なつてゐるのを見《み》て、その建築《けんちく》が、いつの時代《じだい》のものであるかといふことがわかるので、美術《びじゆつ》や歴史《れきし》の上《うへ》から見《み》て非常《ひじよう》にためになることでありますが、そのお話《はなし》をするとあまり長《なが》くなりますから、今《いま》はやめて置《お》きます。また別《べつ》の先生方《せんせいがた》からお聞《き》きになる場合《ばあひ》がありませう。なほ古《ふる》いお寺《てら》のあつたところには、瓦《かはら》のほかに大《おほ》きな柱《はしら》の礎石《そせき》が殘《のこ》つてゐることもあります。この礎《いしずゑ》の竝《なら》べ方《かた》を見《み》て、そこにはどういふ形《かたち》の御堂《おどう》が建《た》つてゐたかゞ知《し》られます。もちろんこの時分《じぶん》のお寺《てら》の建築《けんちく》で、今日《こんにち》もなほ昔《むかし》の礎《いしづゑ》の上《うへ》に立《た》つてゐるものも、たまには珍《めづ》らしく殘《のこ》つてゐます。あの法隆寺《ほうりゆうじ》の金堂《こんどう》、五重《ごじゆう》の塔《とう》中門《ちゆうもん》などが一番《いちばん》古《ふる》いもので、千何百年《せんなんびやくねん》も長《なが》いあひだ木造《もくぞう》の建築《けんちく》がそのまゝ傳《つた》はつてゐるといふことは、世界《せかい》にも餘《あま》り例《れい》のないことです。その次《つ》ぎに古《ふる》いのは奈良《なら》の西《にし》にある藥師寺《やくしじ》の塔《とう》、それから聖武天皇頃《しようむてんのうころ》の建《た》て物《もの》が奈良《なら》にちょい/\殘《のこ》つてをります。これ等《ら》のお寺《てら》をよく見《み》ると、皆《みな》さんはいろ/\造《つく》り方《かた》の違《ちが》つてゐる點《てん》がわかり、また昔《むかし》の建築《けんちく》がいかにも良《よ》く出來《でき》てゐることに氣《き》がつくのですが、この建築《けんちく》のお話《はなし》もまた別《べつ》の時《とき》にすることにいたします。
しかしこゝでちょっと申《まを》して置《お》くことは、かういふお寺《てら》の建築《けんちく》が支那朝鮮《しなちようせん》から傳《つた》はり、天皇《てんのう》の御殿《ごてん》や貴族《きぞく》の家屋《かおく》もさういふふうに作《つく》られるようになりましたが、人民《じんみん》の家《いへ》などはたいていやはり昔《むかし》のまゝの形《かたち》に造《つく》られたと思《おも》はれますし、ことに伊勢大神宮《いせだいじんぐう》や出雲《いづも》の大社《たいしや》のような神社《じんじや》は、ごく古《ふる》い/\時代《じだい》の日本《につぽん》の家《いへ》の形《かたち》をそのまゝに作《つく》ることゝなつてをつたのです。そして今日《こんにち》なほ大神宮《だいじんぐう》は[#「大神宮《だいじんぐう》は」は底本では「太神宮《だいじんぐう》は」]なんべん建《た》てかへても形《かたち》だけは昔《むかし》のまゝに、屋根《やね》は茅葺《かやぶ》き、柱《はしら》は掘立《ほつた》て、そして白木《しらき》のまゝで、高《たか》くちぎ[#「ちぎ」に傍点]とかつをぎ[#「かつをぎ」に傍点]が屋根《やね》の上《うへ》についてゐて、いかにも埴輪《はにわ》の家《いへ》の形《かたち》を思《おも》ひ出《だ》させるのは、なんと神々《かう/″\》しいことではありませんか。
[#「第七十六圖 日本朝鮮支那古瓦」のキャプション付きの図(fig18371_77.png)入る]
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三、朝鮮《ちようせん》滿洲《まんしゆう》の古墳室《こふんしつ》
(イ) 南朝鮮《みなみちようせん》の古墳《こふん》
朝鮮《ちようせん》にも石器時代《せつきじだい》の遺物《いぶつ》が出《で》ることは、前《まへ》にお話《はなし》したのでありますが、その後《ご》今《いま》から二千年程前《にせんねんほどまへ》支那《しな》の周《しゆう》の末《すゑ》から漢《かん》の始《はじ》めにかけて、支那《しな》から金屬《きんぞく》の使用《しよう》が傳《つた》はつて來《き》て、青銅器《せいどうき》鐵器《てつき》の時代《じだい》となりましたのは、日本《につぽん》と大方《おほかた》同《おな》じ頃《ころ》であります。ところがちょうどこの石器《せつき》から金屬器《きんぞくき》にはひる頃《ころ》に、朝鮮《ちようせん》には大《おほ》きな石《いし》で造《つく》つた西洋《せいよう》の巨石記念物《きよせききねんぶつ》のどるめん[#「どるめん」に傍点]とよく似《に》た古墳《こふん》が、北《きた》から南《みなみ》の方《ほう》へかけて、造《つく》られました。それは日本《につぽん》にもちょっと見《み》られないすばらしい形《かたち》のもので、下部《かぶ》を長方形《ちようほうけい》の箱《はこ》のように造《つく》り、その大《おほ》きいものになると、上《うへ》に載《の》せてある一枚《いちまい》の天井石《てんじよういし》の長《なが》さが、三間以上《さんげんいじよう》にも及《およ》んでゐるものがあります。もっとも、かように大《おほ》きいものは、さうたくさんはありませんが、そのうちもっとも見事《みごと》なのは、北朝鮮《きたちようせん》の平安南道《へいあんなんどう》にあるものです。南朝鮮《みなみちようせん》の方《ほう》にも、やはりこれと大體《だいたい》同《おな》じようなものが、あちこちに見受《みう》けられます。(第七十七圖《だいしちじゆうしちず》)
[#「第七十七圖 北朝鮮どるめん古墳」のキャプション付きの図(fig18371_78.png)入る]
その後《ご》、南朝鮮《みなみちようせん》には三韓《さんかん》といふ小《ちひ》さい國《くに》が分立《ぶんりつ》しまして、その内《うち》辰韓《しんかん》といふのが、新羅《しらぎ》の國《くに》になり、弁韓《べんかん》は日本《につぽん》の植民地《しよくみんち》の任那《みまな》になり、また馬韓《ばかん》といふのが百濟《くだら》になつたのであります。ところが、これらの國《くに》の文化《ぶんか》は、わが國《くに》の西南地方《せいなんちほう》である九州邊《きゆうしゆうへん》の文化《ぶんか》と大《たい》そうよく似《に》てをりまして、その時代《じだい》の古《ふる》い墓《はか》から出《で》る品物《しなもの》は、日本《につぽん》のものと大《たい》した變《かは》りはありません。中《なか》にも日本《につぽん》の植民地《しよくみんち》だつた任那《みまな》や、新羅《しらぎ》の古墳《こふん》ではことにさうでありまして、どうしても南朝鮮《みなみちようせん》にゐた人間《にんげん》は、日本《につぽん》の九州邊《きゆうしゆうへん》の人間《にんげん》と、民族《みんぞく》の上《うへ》から見《み》ても大《たい》した變《かは》りはないように思《おも》はれます。しかし朝鮮《ちようせん》には日本《につぽん》の古墳《こふん》で皆《みな》さんが見《み》たような、前方後圓《ぜんぽうこうえん》の形《かたち》をした塚《つか》はなく、たゞ圓《まる》い塚《つか》が二《ふた》つくっついた瓢箪形《ひようたんがたち》のものがあるだけです。また南朝鮮《みなみちようせん》のある所《ところ》では、埴輪圓筒《はにわえんとう》のようなものが發見《はつけん》せられ、また勾玉《まがたま》もたくさん出《で》るので餘程《よほど》日本風《につぽんふう》であるかと思《おも》ふと、また日本《につぽん》の古墳《こふん》からは支那《しな》の鏡《かゞみ》がたくさん出《で》るのにかゝはらず、朝鮮《ちようせん》の古墳《こふん》にはこの鏡《かゞみ》の姿《すがた》をまったく見《み》せないといふようなこともありまして、その間《あひだ》に
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