に用《もち》ひたものでありませう。また今日《こんにち》の下駄《げた》によく似《に》て鼻緒《はなを》の前《まへ》の孔《あな》が右足《みぎあし》は左《ひだり》に、左足《ひだりあし》は右《みぎ》にかたよつて出來《でき》た石《いし》の下駄《げた》が出《で》て來《く》ることがあります。これも平生《へいぜい》は木《き》の下駄《げた》をはいたものでありませうが、この時分《じぶん》の人《ひと》は多《おほ》くは草履《ぞうり》や草鞋《わらぢ》のほかに皮《かは》で作《つく》つた靴《くつ》を履《は》き、またこんな形《かたち》の下駄《げた》を雨《あめ》ふりなどには履《は》いてゐたことがわかります。さうすると私共《わたしども》の下駄《げた》はずいぶん古《ふる》くからあることがわかつて、なんと面白《おもしろ》いではありませんか。また同《おな》じような石《いし》で作《つく》つた品物《しなもの》に鍬《くは》の形《かたち》をしたものや、腕輪《うでわ》の形《かたち》をしたものなどが出《で》て來《き》ますが、この中《なか》には果《はた》して何《なに》に使《つか》はれたものか、よくわからないものも多《おほ》くあるのです。(第七十三圖《だいしちじゆうさんず》)
[#「第七十三圖 日本古墳冠靴その他」のキャプション付きの図(fig18371_74.png)入る]
(リ) 建築《けんちく》、彫刻《ちようこく》、繪畫《かいが》など
私達《わたしたち》は今《いま》まで日本《につぽん》の古墳《こふん》と、その中《なか》から發見《はつけん》せられる樣々《さま/″\》の遺物《いぶつ》を見《み》てまゐりましたが、これ等《ら》の品物《しなもの》は、みなこの古《ふる》い時代《じだい》の人《ひと》の作《つく》つた美術品《びじゆつひん》工藝品《こうげいひん》であつて、このほかに別《べつ》に美術《びじゆつ》も工藝《こうげい》もないわけでありますが、いま改《あらた》めてそれ等《ら》のものから、特《とく》にこの時代《じだい》の建築《けんちく》はどんなものであつたか、彫刻《ちようこく》、繪畫《かいが》はどんなものであつたかを、述《の》べて見《み》ることにいたしませう。
第一《だいゝち》に建築《けんちく》は、古墳《こふん》の石室《せきしつ》なども一種《いつしゆ》の建築《けんちく》ではありますが、人間《にんげん》の住《す》み家《か》などの類《るい》はどういふふうなものであつたかといふと、前《まへ》にも申《まを》したとほり、屋根《やね》は草葺《くさぶ》き、茅葺《かやぶ》きあるひはまた板葺《いたぶ》き、柱《はしら》は圓《まる》い材木《もくざい》をそのまゝ、あるひは皮《かは》をむいて用《もち》ひ、柱《はしら》の下《した》には礎《いしずゑ》もない、掘立《ほつた》て小屋《ごや》といふふうなものであつたので、今日《こんにち》その跡《あと》はなにも殘《のこ》つてをりません。それゆゑ、これはたゞあの埴輪《はにわ》の家《いへ》や、そのほかの品物《しなもの》に現《あらは》れてゐる家《いへ》の形《かたち》と、歴史《れきし》や歌《うた》の書物《しよもつ》に書《か》いてあるところで想像《そう/″\》するほかには、今《いま》なほ神社《じんじや》や民家《みんか》に殘《のこ》つてゐる古《ふる》い作《つく》り方《かた》を參考《さんこう》にするほかはありません。また倉《くら》のような建《た》て物《もの》は、多《おほ》くは今日《こんにち》も奈良《なら》の正倉院《しようそういん》の御倉《おくら》などに見《み》るような、木《き》を組《く》みあはせた校倉《あぜくら》といふものであつたと思《おも》はれます。
その次《つ》ぎに彫刻《ちようこく》といふものはなんであるかといふに、これは埴輪《はにわ》の人形《にんぎよう》や動物《どうぶつ》の像《ぞう》または石人《せきじん》石馬《せきば》などがそれであります。もちろんあの埴輪《はにわ》は、お葬式《そうしき》の時《とき》に作《つく》つて墓場《はかば》に立《た》てたもので、非常《ひじよう》に骨《ほね》ををつて作《つく》つたものではありませんが、その粗末《そまつ》な下手《へた》な作《つく》り方《かた》のうちにも、この時代《じだい》の人《ひと》の無邪氣《むじやき》な素直《すなほ》な心持《こゝろも》ちがよく現《あらは》れてをります。かういふ埴輪《はにわ》の人形《にんぎよう》を作《つく》つてゐる時《とき》に、朝鮮《ちようせん》から佛教《ぶつきよう》が傳《つた》はり、お釋迦《しやか》さま、彌勒《みろく》さま、觀音《かんのん》さまのような佛樣《ほとけさま》の像《ぞう》が持《も》ちこまれたのですから、驚《おどろ》いたのはむりもないのです。これは立派《りつぱ》なお姿《すがた》だと感心《かんしん》して、佛教《ぶつきよう》を信《しん》ずるものも多《おほ》く出來《でき》たのですが、そのうち日本《につぽん》でも佛像《ぶつぞう》を作《つく》るようになり、それから百年《ひやくねん》もたゝない奈良朝《ならちよう》ごろになつては、その本家《ほんけ》である支那朝鮮《しなちようせん》の佛像《ぶつぞう》にも優《まさ》るとも劣《おと》らない、立派《りつぱ》な彫刻《ちようこく》が出來《でき》たのであります。
それではこの時代《じだい》の繪畫《かいが》といふものは殘《のこ》つてゐるかといひますと、もちろん襖《ふすま》や唐紙《からかみ》に描《か》き、掛《か》け軸《じく》にした繪《え》などは、この時代《じだい》にはないばかりでなく、またあつたからとて今日《こんにち》まで殘《のこ》つてゐるはずはありません。またあのヨーロッパの舊石器時代《きゆうせつきじだい》の大昔《おほむかし》のように、洞穴《ほらあな》に描《か》いたすばらしい動物《どうぶつ》の畫《え》などはまったくなく、たゞ銅鐸《どうたく》の上《うへ》に現《あらは》してある簡單《かんたん》な子供《こども》が描《か》いたような、しかし非常《ひじよう》に面白《おもしろ》い人物《じんぶつ》動物《どうぶつ》家屋《かおく》の圖《ず》などの他《ほか》には、祝部土器《いはひべどき》やその他《た》の品物《しなもの》、または古墳《こふん》の石室横穴《せきしつよこあな》の中《なか》の壁《かべ》などに彫《ほ》りつけた、まことに粗末《そまつ》な人物《じんぶつ》や盾《たて》、矢筒《やつゝ》などの品物《しなもの》の圖《ず》が少《すこ》し殘《のこ》つてゐるだけでありまして、ごく昔《むかし》の日本人《につぽんじん》はけっして繪《え》が上手《じようず》であつたとか、好《す》きであつたとはいふことが出來《でき》ないのです。しかし、それは生《うま》れつき下手《へた》であつたといふわけではない證據《しようこ》には、後《のち》に支那朝鮮《しなちようせん》から繪畫《かいが》が傳《つた》はつて來《く》ると、すぐにそれを習《なら》つて、非常《ひじよう》に立派《りつぱ》なものを作《つく》り出《だ》すことになつたのであります。
次《つ》ぎに裝飾《そうしよく》模樣《もよう》の類《るい》も、石器時代《せつきじだい》の土器《どき》にあるような、曲線《きよくせん》のごて/\した模樣《もよう》のまったくないことは、前《まへ》に申《まを》したとほりで、たゞ簡單《かんたん》な圓《えん》や三角《さんかく》の圖《ず》の他《ほか》には、刀劍《とうけん》の柄《つか》の飾《かざ》りにあつたような、直線《ちよくせん》と弧線《こせん》とを組《く》み合《あは》せた、不思議《ふしぎ》な模樣《もよう》が目《め》につくだけです。この模樣《もよう》はまづ日本《につぽん》にしか見《み》られないもので、古墳《こふん》の内部《ないぶ》やその他《た》の品物《しなもの》にもよくつけてあるのですが、餘《あま》り珍《めづら》しいので近頃《ちかごろ》西洋《せいよう》あたりで流行《りゆうこう》する模樣《もよう》かと思《おも》ふ人《ひと》があるくらゐです。(この本《ほん》の表紙畫《ひようしえ》を御覽《ごらん》なさい)この他《ほか》馬具《ばぐ》や何《なに》かに支那朝鮮《しなちようせん》から傳《つた》はり、あるひはそれをまねた品物《しなもの》に、支那朝鮮風《しなちようせんふう》の模樣《もよう》がついてゐるものもありますが、それはこの時代《じだい》には、まだほんの借《か》りものに過《す》ぎなかつたのでした。
かういふふうに古墳《こふん》から出《で》る品物《しなもの》を見《み》て、われ/\はその時分《じぶん》の人々《ひと/″\》が、どういふ心持《こゝろも》ちでをつたか、どういふ趣味《しゆみ》を持《も》つてをつたかといふことがわかり、また支那《しな》あたりからはひつて來《き》た文化《ぶんか》のほかに、昔《むかし》から日本人《につぽんじん》が持《も》つてをつた固有《こゆう》の文化《ぶんか》や趣味《しゆみ》が、やはり殘《のこ》つてゐたことが知《し》られるのです。これは近頃《ちかごろ》西洋《せいよう》の文明《ぶんめい》がはひつて來《き》ても同《おな》じことで、いかに西洋風《せいようふう》を習《なら》つても、ある點《てん》には日本人《につぽんじん》には日本人《につぽんじん》らしい趣味《しゆみ》と特質《とくしつ》が、消《き》えないのであります。またそれがなくなつては、日本人《につぽんじん》でなくなるのですから大《たい》へんです。
またこれらの古墳《こふん》から出《で》た品物《しなもの》を調《しら》べて知《し》られることは幾《いく》らもあります。例《たと》へば昔《むかし》の人《ひと》はどういふ生活《せいかつ》をし、どういふ風俗《ふうぞく》をしてをつたかといふことも、書物《しよもつ》だけでははっきりわからぬことを、よく知《し》ることが出來《でき》るのですから、古墳《こふん》をやたらに掘《ほ》つたりすることは惡《わる》いことでありますが、何《なに》かの拍子《ひようし》に壞《こは》れたりして、中《なか》から物《もの》が出《で》た時《とき》には大切《たいせつ》にこれを保存《ほぞん》し、丁寧《ていねい》にこれを調《しら》べなくてはなりません。そしてかういふことを調《しら》べる人《ひと》が考古學《こうこがく》をやる學者《がくしや》なのです。なほ昔《むかし》の風俗《ふうぞく》や生活《せいかつ》のあり樣《さま》については、詳《くは》しいことをこゝでお話《はな》しする時間《じかん》もなく、皆《みな》さんが歴史《れきし》の本《ほん》や他《ほか》の先生《せんせい》から教《をそ》はることゝ思《おも》ひますから、今日《けふ》はこれだけでよして置《お》きます。
[#「第七十四圖 銅鐸の模樣畫」のキャプション付きの図(fig18371_75.png)入る]
[#「第七十五圖 日本古墳装飾模樣圖」のキャプション付きの図(fig18371_76.png)入る]
(ヌ) 古瓦《ふるがはら》と古建築《こけんちく》
日本《につぽん》の古墳《こふん》から發見《はつけん》されてゐるいろ/\の品物《しなもの》は、皆《みな》さんと一《いつ》しょに見《み》てまゐりましたが、この日本《につぽん》の古墳《こふん》と非常《ひじよう》によく似《に》てゐる朝鮮《ちようせん》などの古墳《こふん》についても、この博物館《はくぶつかん》に參考《さんこう》として少《すこ》しばかり品物《しなもの》や摸型《もけい》を竝《なら》べてありますから、それらを見《み》なければなりませんが、その前《まへ》に、こゝにあります日本《につぽん》から出《で》る古《ふる》い瓦《かはら》を、ちょっと見《み》ることにいたしませう。
日本《につぽん》の古墳《こふん》が造《つく》られた時代《じだい》の終《をは》りの頃《ころ》には、もはや朝鮮《ちようせん》をへて日本《につぽん》へ佛教《ぶつきよう》がはひり、それと一《いつ》しょにお寺《てら》の建築《けんちく》が、だん/\出來《でき》かけてをりました。あの大和《やまと》の法隆寺《ほうりゆうじ》などの大《おほ》きい伽藍《がらん》
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